法華経

はてなブログを始めたのは自分の法華経二十八品の和訳を紹介するためです。

 

妙法蓮華経 序品第一 

((①如是我聞))(このように私は聞いた)。一時、仏は耆闍崛山(ギシャクッセン)という山の中にある王舎城に万二千の大比丘衆とともにおり、みなこれ阿羅漢(学者)で、諸漏をすでに尽くし、復して悩み煩うことなく、己利を逮得し、多くの有結を尽くし、心は自在を得ていた。

その名を曰うと(1)((②阿若憍陳如))アニャキョウジンニョ、(2)摩訶迦葉 マカカショウ、(3)優樓頻螺迦葉 ウルビラカショウ、(4)伽耶迦葉 ガヤカショウ、(5)那提迦葉 ナダイカショウ、(6)舎利弗 シャリホツ、(7)大目犍連 ダイモッケンレン、(8)摩訶迦旃延 マカカセンネン、(9)阿 冕 樓駄 アヌルダ、(10) 劫賓那 ゴウヒンナ、(11)憍梵波提 キョウボンハダイ、(12)離婆多 リハタ、(13)畢陵伽婆蹉 ヒツリョウガバシャ、(14)薄拘羅 ハクラ、(15)摩訶拘絺羅 マカクキラ、(16)難陀 ナンダ、(17)孫陀羅難陀 ソンダラナンダ、(18)富樓那弥多羅尼子 フルナミタラニシ、(19)須菩提 シュボダイ、(20)阿難 アナン、(21)羅侯羅 ラゴラ、である。かくのごとき衆は、ひとしく大阿羅漢と知識するところである。

復して、学、無学の二千人あり。摩訶波闍波提比丘尼は、六千人の眷属と、ともにいた。

羅侯羅(ラゴラ、釈迦の息子)の母である耶輸陀羅(ヤシュタラ)比丘尼は、また眷属と、ともにいた。

八万人の菩薩摩珂薩は、みな(悟りの)阿耨多羅三藐三菩提(アノクタラサンミャクサンボダイ)において不退転で、みな陀羅尼(ダラニ、呪文による念力)を得て、弁才を楽説し、不退の法輪を転じ(自在にして)、無量百千の、仏たちを供養し、仏たちのところにおいて、衆の徳本を植え、常に、ために仏たちの称歎するところであり、慈しみをもって修身し、仏慧に善入し、大智に通達し、彼岸において到る。名称は普く無量の世界に聞こえ、よく無数百千の衆生を度す。

それらの名を曰うと(1)文殊師利菩薩(2)観世音菩薩(3)得大勢菩薩(4)常精進菩薩(5)不休息菩薩(6)宝掌菩薩(7)薬王菩薩(8)勇施菩薩(9)宝月菩薩(10)月光菩薩(11)満月菩薩(12)大力菩薩(13)無量力菩薩(14)越三界菩薩(15)跋陀婆羅菩薩(16)弥勒菩薩(17)宝積菩薩(18)導師菩薩と曰う。かくのごとくひとしき菩薩摩訶薩は、八万人がともにいた。

その時、釈提桓因は、その眷属二万の天子とともにいた。

復して、(1)名月天子(2)普香天子(3)宝光天子(4)四大天王があり、その眷属、万の天子と、ともにいた。

(1)自在天子(2)大自在天子は、その眷属三万の天子と、ともにいた。

娑婆世界の主、(1)梵天王(2)尸棄大梵(3)光明大梵はひとしくその眷属万二千の天子と、ともにいた。

(1)八龍王(2)難陀龍王(3)跋難陀龍王(4)娑伽羅龍王(5)和修吉龍王(6)徳叉迦龍王(7)阿那婆達多龍王(8)摩那斯龍王(9)優鉢羅龍王たちは、それぞれが若干、百千の眷属と、ともにいた。

(1)四緊那羅王(2)法緊那羅王(3)妙法緊那羅王(4)大法緊那羅王(5)持法緊那羅王があり、各、若干、百千の眷属と、ともにいた。

(1)四乾闥婆王(2)楽乾闥婆王(3)楽音乾闥婆王(4)美乾闥婆王(5)美音乾闥婆王があり、各、若干、百千の眷属と、ともにいた。

(1)四阿修羅王(2)婆稚阿修羅王(3)佉羅騫駄阿修羅王(4)毘摩質多羅阿修羅王(5)羅睺阿修羅王があり、各、若干、百千の眷属と、ともにいた。

(1)四迦樓羅王(2)大威徳迦樓羅王(3)大身迦樓羅王(4)大満迦樓羅王があり、各、若干、百千の眷属とともにいた。

韋提希の子((③阿闍世王))は、若干、百千の眷属と、ともにいた。

各、仏の足元に礼をすると、一面に退坐した。 

その時、世尊は、四衆が囲繞し、供養し、恭敬、尊重、讃歎し、菩薩たちのために、菩薩に教える法で、((④仏の護念していたところ))の無量義という名の大乗経を説いた。仏は、この経を説き終わると、無量義処の三昧において入り、結跏趺坐し、身と心を不動にした。

この時、天より曼陀羅華、摩訶曼陀羅華、曼殊沙華、摩訶曼殊沙華がふり、しかも仏と大衆へ散らされ、普く仏の世界は六種に震動した。

その時、会中の(1)比丘(僧)(2)比丘尼(尼僧)(3)優婆塞(俗男)(4)優婆夷(俗女)(5)天(6)龍(7)夜叉(8)乾闥婆(9)阿修羅(10)迦樓羅(11)緊那羅(12)摩睺羅伽(13)人(14)非人、および小王と転輪聖王たち、この多くの大衆たちは、いまだかつてない歓喜で合掌して、一心に仏を観た。

その時、仏は、 眉間の白豪相より光を放ち、東方の万八千世界、その光は((⑤下は阿鼻地獄に至り))、上は阿迦尼吒天に至り、周りに行き渡らないところはないほど照らされた。この世界において、彼の土の六趣の衆生を見尽くし、また、彼の土の現在の仏たちも見え、及び仏たちの経法を説くところが聞こえる。併せて彼の比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷たち、多くの修業の得道者が見える。復して、菩薩摩訶薩たちが種々の因縁、種々の信解、種々の相貌で菩薩道を行じているのが見える。復して、仏たちの般涅槃者が見える。復して、仏たちの般涅槃の後に、もって仏舎利に七宝の塔を起てたのが見える。

その時、弥勒菩薩はこの念を作しす。

今者、世尊が神変の相を現したのは、もって何の因縁により、しかも此の瑞が有るのか。今、仏世尊は、三昧に于(お)いて入り、このことは不可思議で、希有の事を現わし、当にもって誰に問い、誰がよく答える者か。復して、此の念を作す。この文殊師利、法王の子は、すでに、かつて無量の仏たちに、親近し、供養し、必ず応じて此の希有の相を見ている。私は、いま、当に問う。

その時、比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷、および天、龍、鬼神はひとしく咸(みな)此の念を作す。この仏の光明神通の相を、いま当に誰に問うか。

その時、弥勒菩薩は疑いを自決したくて、又、四衆、比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷、および天、龍、鬼神たち、ひとしく衆会の心を観じ、しかも文殊師利に問うて言った。

いかなる因縁をもって、しかもこの瑞、神通の相があり、大光明を放ち、東方の万八千の土に于(お)いて、悉く彼の仏国界を荘厳し、見えるよう照らしたのか。

ここにおいて、弥勒菩薩は此の義を重ねて宣べたくて、偈を以って問うて曰った。(偈の文は四文字ないし五文字で詩文を作っているが、日本語現代文では、ただ普通に訳しております。)(以下、本文は四文字の偈)

 

 文殊師利よ、((⑥導師(世尊)はなぜ))眉間の白豪より大光を普く照らし、曼陀羅、曼殊沙華が雨(ふ)り、栴檀の香風で衆の心を悦可し、この因縁をもって地はみな厳浄となり、しかもこの世界は六種に震動し、時の四部衆は、咸(みな)皆(みな)歓喜し、身も意も快然と、未曾有を得て、眉間の光明は、東方万八千土に于(お)いて照らし、みな金色のごとく、阿鼻獄より上は頂きに至り、諸世界中の六道の衆生が生死する所の趣き、善悪の業と縁、受ける好醜の報いをここに於いて悉く見える。また、仏たち、聖主、師子の微妙第一の経典の演説を覩(み)る。その声は清浄で、柔軟な音を出し、無数億万の菩薩たちを教え、梵音は深妙で、聞く人を楽しませ、各世界において、正法を講説し、種種の因縁、無量の喩えをもって、仏の法で明るく照らして、衆生を開悟する。もし人が苦しみに遭い、老、病、死を厭えば、ために涅槃を説き、多くの苦の際を尽くした。もし、人に福あり、かつて仏を供養し、勝法を志求するならば、ために縁覚を説く。もし、仏子あり、種種の行を修め、無上慧を求めるならば、ために浄道を説く。

文殊師利よ。

私は此こに住み、このように見聞きしたことは千億事に及び、かくのごとき衆多を、いま、まさに略して説く。

私は、彼の土で恒沙の菩薩が種種の因縁で、しかも仏道を求めるのを見た。あるいは施を行じ、金、銀、珊瑚、真珠、摩尼、硨磲、瑪瑙、金剛や多くの珍、奴婢、車乗、宝飾、輦輿を歓喜して布施し、仏道へ廻向し、願って三界第一の此の乗を得て、仏たちに賛嘆されるところ。あるいは、ある菩薩は、欄楯華蓋で軒飾の駟馬宝車を布施した。復して、菩薩で、身肉手足及び、妻子を施して、無上道を求めるのを見た。また、菩薩で、頭、目、身体を欣楽して施し与え、仏の知慧を求めるのを見た。

文殊師利よ。

私は多くの王が仏のところへ往詣して、無上道を問い、楽土、宮殿、臣、妾を便捨し、鬚、髪を剃除し、しかも法服を被るのを見た。あるいは、菩薩でしかも比丘と作し、独り閒静な処で、経典を楽誦するのを見た。

また、菩薩で、勇猛精進し、深く山に入り、仏道を思惟するのを見た。

また、欲を離れ、常に空閒のところで、禅定を深く修し、五神通を得るのを見た。

また、菩薩で安禅と合掌し、千万の偈をもって、法王たちを讃えるのを見た。

復して、菩薩で智深く、志固く、仏たちによく問い、聞いて、悉く受持するのを見た。

また、仏子で、定慧が具足し、無量の喩えをもって、衆のために法を講じ、欣楽に説法し、菩薩たちを化し、魔の衆兵を破り、しかも法の鼓を撃つのを見た。

また、菩薩で、寂然と宴黙し、天、龍が恭敬するも、もってために喜ばずにいたのを見た。

また、菩薩で、林のところで光を放ち、地獄の苦しみを済ませて、仏道へと令入するのを見た。

また、仏子で、睡眠を未嘗にして、林の中に経行し、仏道を勤求するのを見た。

また、戒を具し、威儀は無缼で、宝珠のごとく浄く、もって仏道を求めるのを見た。

また、仏子で、忍耐力に住み、増上慢の人が、悪罵し捶打するも、みな悉くよく忍び、もって仏道を求めるのを見た。

また、菩薩で、多くの戯笑および癡な眷属を離れ、智者に親近し、一心に乱れを除き、山林に攝念し、億千万歳と、もって仏道を求めるのを見た。

あるいは菩薩で、肴膳の飲食、百種の湯薬を、仏および僧に施し、名衣、上服、価値千万、あるいは無価の衣を、仏および僧に施し、千万億種の栴檀の宝舎、衆妙な臥具を仏および僧に施し、清浄な園林に華果、茂盛し、泉、浴、池が流れ、仏および僧に布施するのを見た。かくのごとくひとしき施しは、種種微妙で、歓喜、無厭に、無上道を求めた。

あるいは、菩薩あり、寂滅の法を説き、無数の衆生を種種に教詔した。

あるいは、菩薩で、多くの法性を、二相の有、無、なお虚空の如し、と観じているのを見た。

また、仏子で、心に著すところ無く、この妙慧(全智)をもって、無上道を求めるのを見た。

文殊師利よ。

また、菩薩あり、仏の滅度の後に、舎利を供養した。

また、仏子で、多くの塔廟を造るのを見た。無数の恒沙で、国界を厳飾し、宝塔は、高妙で、五千由旬、縦、広、正、ひとしく二千由旬、一、一の塔廟は、各、千の幢幡、珠を交え、露幔し、宝鈴が和鳴し、天、龍、神、人及び非人たちは、香、華、伎楽を常にもって供養した。

文殊師利よ。

仏子たちは、ひとしくために舎利を供え、塔廟を厳飾し、国界は自然で、殊特で妙好、天樹王の如く、その華は開敷した。

仏が一光を放ち、私および衆会は、此の国界の種種の殊妙を見た。仏たちの神力と智慧は、希有である。一浄光を放ち、無量の国々を照らし、我らはこれを見て、未曾有を得た。

仏子、文殊よ。

衆の疑いを決するを願う。四衆は、欣仰し、瞻仁は私におよび、世尊がなぜこの光明を放ったのか、仏子が時に答え、疑いを決して令喜させよ。いかなるところに饒益し、この光明を演じるか。仏が道場に坐り、得たところの妙法は、ために此れを説きたくて、まさに授記のため、多くの仏土を示し、衆宝を厳浄にして、およびに仏たちも見え、此れは小縁に非ず。

文殊よ、まさに知るべし。

四衆、竜神は、仁者を瞻察し、ために何なるひとしきを説くか。(以上、四文字の偈)

 

その時、文殊師利は、弥勒菩薩摩珂薩及び多くの大士、善男子たちにひとしく語った。

私の惟忖するごとく、いま、仏、世尊は、大法を説きたく、大法雨を雨らせ、大法螺を吹き、大法鼓を撃ち、大法義を演ずる。

善男子たちよ。

私は過去において、仏たちの此の瑞をかつて見た。この光をすでに放ち、すぐに大法を説いた。

これゆえに当に知るべし。

いま、仏が光を現わすのは、また、復してかくのごとき。衆生に一切世間の難信の法を、聞知して咸(みな)得られるようにしたいので、ゆえにこの瑞を現す。

善良な男子たちよ、

過去、無量無辺、不可思議、阿僧祇劫のごとき。その時、仏あり、号は、日月燈明(1)如来(2)応供(3)正偏知(4)明行足(5)善逝世間解(6)無上士(7)調御丈夫(8)天人師(9)仏(10)世尊、である。

正法を演説し、初め善く、中ほど善く、後ろ善く、その義は深遠で、その語は巧妙、純一、無雑で、清白、梵行の相を具足し、ために声聞を求める者には、応じて四諦の法(苦・集・滅・道)を説き、生老病死を度して、涅槃を究竟させ、ために辟支仏(ヒャクシブツ―縁覚)を求める者には、応じて十二因縁の法を説き、ために菩薩たちに応じて、六波羅蜜を説き、一切種智を成す、阿耨多罗三藐三菩提(アノクタラサンミャクサンボダイ)を令得させた。

次に、復して仏あり、また、名は日月燈明。次に、復して仏あり、また、名は日月燈明。かくのごとく、二万の仏がみな同一字で、号は日月燈明で、また同一姓で、姓は頗羅堕(ハラダ)である。

弥勒よ、まさに知るべし。

初めの仏より最後の仏まで、みな同一字で、名は日月燈明で、十号を具足し、説くべきところの法は、初め、中ほど、後ろ、すべて善い。

その、最後の仏が未出家の時に、八王子あり。一の名は有意、二の名は善意、三の名は無量意、四の名は宝意、五の名は増意、六の名は除疑意、七の名は響意、八の名は法意といった。この八王子は威徳自在で、各、四天下を領し、この王子たちは、父の出家して、阿耨多羅三藐三菩提(アノクタラサンミャクサンボダイ)を得たのを聞くと、悉く王位を捨て、また、隨って出家し、大乗の意を発し、常に梵行を修め、みなために法師となり、すでに千万の仏のところにおいて、多くの善本を植えた。

この時、日月燈明仏は、無量義という名の、仏が念じ護っていたところの菩薩に教える大乗教をすでに説き、すぐに、大衆の中において、無量義処三昧に入り、結跏趺坐し、身も心も不動とした。

この時、天より曼陀羅華、摩珂曼陀羅華、曼殊沙華、摩珂曼殊沙華が雨(ふ)り、しかも仏の上および大衆たちに散らされ、普く仏の世界は六種に震動した。

その時、会中の比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷、天龍、夜叉、乾闥婆、阿修羅、迦樓羅、緊那羅、摩睺羅伽、人、非人及び小王、転輪聖王。ひとしくこれら大衆たちは、いまだかつてない歓喜を得て、合掌して一心に仏を観た。

その時、如来は眉間の白豪相の光を放ち、東方、万八千の仏土をかたよることなく照らした。いまこれに見るところのごとくの多くの仏土である。

弥勒よ、まさに知るべし。

その時、会中に二十億の菩薩があり、楽しみに、法を聴きたくて、これらの菩薩たちは、この光明の普く仏土を照らすのを見て、未曾有を得て、ためにこの光の因縁を知るのを欲した。

時に、菩薩あり、名を妙光と曰い、八百の弟子があり、この時、日月燈明仏は三昧より起ち、妙光菩薩を因として、仏が念じ、護るところの菩薩に教える法で、名を妙法蓮華という大乗経を説いた。

六十小劫、座において起きず、時に、会の聴者もまた、六十小劫、一処に坐り、身も心も不動に、仏の説くところを聴く。謂うは食のごときの頃、この時、衆の中で、もしくは身に、もしくは心に、しかも懈倦を生じるのは、一人もあることなし。

日月燈明仏は六十小劫、この経をすでに説き、すぐに、梵、魔、沙門、婆羅門及び天、人、阿修羅、衆の中において、しかも此の言を宣す。如来(自身)は、今日中の夜において、まさに餘なく、涅槃へ入る。

時に、菩薩あり、名を徳蔵と曰い、日月燈明仏は、すぐにその記を授け、比丘たちに告げる。この徳蔵菩薩が次に、まさに作仏する。号は、浄身多陀阿伽度阿羅訶三貌三仏陀である。仏は、すでに授記すると、便じて夜中において、餘なく涅槃へ入った。

仏の滅度の後に、妙光菩薩は妙法蓮華経を持ち、満八十小劫、ために人に演説した。

日月燈明仏の八子は皆、妙光を師とした。妙光は、阿耨多羅三藐三菩提(アノクタラサンミャクサンボダイ)を堅固とするように教化した。この王子たちは無数百千万億の仏をすでに供養して、みな仏道を成した。

その最後に成仏した者で名を然燈と曰い、八百の弟子の中に一人、号を求名と曰い、利養に貪著し、衆経を復して読誦するも、しかも通利せず、多くを忘失するところ、ゆえに号を求名とされた。この人は、また、もって種々の多くの善根を因縁としたゆえ、無量百千万憶の仏たちと得値し、供養し、恭敬し、尊重し、賛嘆した。

弥勒よ、まさに知るべし。

その時の妙光菩薩は、豈、異なる人乎、我が身これなり。求名菩薩があなた自身なり。今この瑞を見て、本と、異なることなし。これゆえに、惟忖して、今日、如来は、まさに大乗経を説く。名は妙法蓮華。仏の護念するところの菩薩に教える法である。

その時、文殊師利は、大衆中において重ねてこの義を宣べたくて、しかも偈を説いて言った。(以下、本文は五文字の偈)

 

  私が過去世、無量無数劫を念じて、人中に尊い仏がおり、号は日月燈明。世尊の演説する法は、無量の衆生を度し、無数億の菩薩を、仏の智慧に令入した。

仏が未出家の時、生まれたところの八王子は、大聖の出家を見て、また隨い梵行を修した。

時に、仏は、大乗を説き、経名は無量義で、多くの大衆中において、しかもために広く分別し、仏は、この経をすでに説き、すぐに法座の上において跏趺坐し、名は無量義処という三昧である。

天より曼陀華が雨り、((⑦天の鼓は自然に鳴り))天、龍、鬼神たちは、中の尊い人へ供養した。一切の仏たちの土は、即時に大きく震動し、仏は、眉間より光を放ち、多くの希有の事をあらわした。この光は東方、万八千の仏土を照らし、一切の衆生の生、死、業、報の処を示した。

仏たちの土のあるのが見え、衆宝をもって荘厳され、瑠璃、玻瓈色、それは仏の照らす光による。および、天、人たち、龍神、夜叉衆、乾闥婆緊那羅は、各、その仏を供養するのが見える。

また、如来たちが、自然に仏道を成すのが見える。身の色が金山のごとく、端厳で、はなはだ微妙で、浄瑠璃のなかのごとく、真金の像を内現している。世尊は、大衆にあり、深い法義を敷演する。一、一の、仏たちの土の声聞衆は無数で、仏のひかりの照らすところにより、彼の大衆がことごとく見える。

或いは、比丘たちがあり、山林中に在るにおいて、浄戒をたもち、精進しているのは、猶、明珠を護るがごとくである。

また、菩薩たちが施、忍辱にひとしきを行じ、その数は恒沙のごとく、それは仏の照らす光によって見える。

また、菩薩たちが、深く多くの禅定へ入り、身も心も不動にして寂し、もって無上道を求めるのが見える。

また、菩薩たちが、法の寂滅の相を知り、各その国土において仏道を求めて法を説くのが見える。

その時、四部衆(比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷)は、日月燈(明)仏が大神通力を現したのを見て、その心はみな歓喜して、各、各自が、このことがいかなる因縁かを相問した。

天と人が奉尊するところ、適して、三昧より起ち、妙光菩薩を讃え、あなたは世間の眼と為し、一切の帰信するところ、よく宝蔵を奉持する。私の説法するところのごとく、唯、あなたがよく證知する。あなたしかいないとほめたたえた。

世尊は妙光を既に賛嘆し、妙光を歓喜させ、この法華経を説き、満六十小劫、この座において起たず、説くところの上妙法を、この妙法法師は、皆ことごとくよく受持した。

仏はこの法華を説き、衆をすでに歓喜させて、尋ねるようにすぐに、この日において、天人衆において告げ、諸法実相の義は、すでにためにあなたにひとしく説き、私は今、夜中において、まさに涅槃において入る。あなたは一心に精進し、まさに、放逸において離れ、仏たちは、はなはだ難値で、億劫の時に一度遇う。

世尊の諸子はひとしく、仏の涅槃に入るのを聞き、各、各、仏滅一が、何に速いかに、悲悩を懐いた。

聖主、法の王は、無量の衆を安慰させる。私がもし滅度する時、あなたにひとしきは、憂怖する勿れ。この徳蔵菩薩が、無漏の実相において、心すでに通達して得ており、その次にまさに作仏して号をために浄身とい曰い、また、無量の衆を度する。

仏は、この夜、滅度する、薪の火を滅し尽くすごとく。多くの舎利は分布され、しかも無量の塔が起ち、比丘、比丘尼は、その数、恒沙のごとく、倍に復して精進を加え、もって無上道を求めた。

この妙光法師は、仏の法蔵をたもち奉り、八十小劫中、法華経を広く宣べた。

この八王子たちは、妙光の開化する所、無上道を堅固にして、まさに無数の仏に見し、すでに仏たちに供養して、隨順して、大道を行じ、相繼し、成仏を得て、転次して、しかも授記し、最後が天中の天で、号を然燈仏と曰い、諸仙の導師として、無量の衆を度脱した。

この妙光法師に、時に、一弟子あり、心に常に懈怠を懐き、名利において貪著し、名利を求めて無厭で、族性家たちと多く遊び、習誦するところを棄捨し、廃忘して通利せず。この因縁をもっての故、これがために号を求名とされた。また、衆の善業を行い、無数の仏に、得見し、仏たちを供養し、隨順して大道を行じ、六波羅密を具え、いま釈師子に見し、その後、まさに作仏して、号の名は弥勒と曰い、広く衆生たちを度し、その数は無量である。

彼の仏の滅度の後、懈怠の者がこれ、あなたで、妙光法師なる者が、いま、すなわち、これ私の身である。私が燈明仏に見し、もとの光の瑞は此のごとし、これをもって、いま、仏が、法華経を欲説するを知る。いまの相は、もとの瑞のごとく、これ仏たちの方便であり、いま仏は、光明を放ち、実相の義を助発する。

諸人は、いま、まさに知る。合掌して、一心に待ち、仏がまさに、法雨を雨らせ、求道者たちを充足させる。三乗を求める人たちは、もし疑悔ある者は、仏がまさにために除断し、餘りあることなく、尽くしてくれる。(以上、本文は五文字の偈)

 

 

妙法蓮華経 ((①方便品))第二

 

その時、世尊は三昧より安祥と起ち、

舎利弗<1>に告げた。

((②仏たちの智慧は、はなはだ深く、無量であり、その智慧の門))は理解するのが難しく、入ることも難しく、一切の声聞、辟支仏の知るところではない。なぜならば、仏は、かつて、百千万億、無数の仏たちに親近し、仏たちの無量の道法を、行じ尽くして、勇敢に精進し、その名は普く聞こえ、いまだかつてない、甚深の法をなしとげ、随所で説き、その意趣は難解である。

舎利弗<2>よ、

吾(私)の成仏より、已来、種々の因縁と、種々の譬喩で、広く無数の方便で教え、演説して、衆生がさまざまな執着より離れることのできるように引導した。なぜならば、如来の方便は、波羅密を知見し、すでに、みな具足している。

舎利弗<3>よ、

如来の知見は、広大で深遠で、無量、無礙で、力があり、畏れるところがなく、禅定、解脱、三昧は、深く入り、際限がなく、いまだかつてない、一切の法をなしとげている。

舎利弗<4>よ、

如来は、よく種々を分別し、多くの法を巧みに説き、柔軟な言辞で、衆の心を悦ばせる。

舎利弗<5>よ、

要を取って言えば、無量であり、無辺であり、いまだかつてない、法のことごとくを、仏はなしとげている。

止、舎利弗<6>、

復説してはならない。なぜならば、仏のなしとげた、第一に希有で難解の法は、ただ仏と仏が究めつくす、諸法の実相で、いわゆる諸法は(1)如是相(2)如是性(3)如是体(4)如是力(5)如是作(6)如是因(7)如是縁(8)如是果(9)如是報(10)如是本末(始めと終わり)が究竟してひとしい。

その時、世尊は、かさねてこの意義を宣べたくて、しかも、偈を説いて言った。(以下、本文は五文字の偈)

 

世雄、量るべからず。諸天および世の人、一切の衆生の類は、仏者を知る能はない。仏の力は無所畏であり、多くの三昧を解脱しており、そして仏のもろもろの餘りの法は、その量を測る能のある者はない。もとより無数の仏より、諸道を行じて具足しており、はなはだ深い、繊細な妙法は、見難く、理解し難い。無量億劫において、この諸道を行じ終えて、道場で得た成果を、私は悉く知見している。このような大果報の種々の性・相の義を、私および十方の仏がよくこのことを知っている。この法は、示すことができず、言辞・相・寂滅は 、余りある、多くの衆生の類で、理解できるものはない。

菩薩衆たち、信力堅固な者を除き、仏たちの弟子衆は、かつて、仏たちを供養し、一切漏(有漏と無漏)をつくし終えて、この最後身に住している。このような人たちもひとしく、その力の堪えるところではない。

かりに、世間に、満々と、みなが、舎利弗<7>の如く、共に度量を尽くして考えても、仏智は測ることはできない。

正しく十方に満々と、みなが舎利弗<8>の如く、および、余る弟子たちが、また、満々と十方に刹那に、共に度量を尽くして考えても、またまた、知ることはできない。

辟支仏は、智が利き、無漏の最後身で、また十方界に満々と、その数は竹林のごとくにいて、これらが共に、一心に億無量劫において、仏の実智を思い、欲しても、少分を知ることもできない。

新発意の菩薩は、無数の仏を供養し、多くの義趣を了達し、また、よく善い説法ができ、稲、麻、竹、葦のように十方に刹那に充満し、一心に、妙智をもって恒河沙劫の間、ずっと、皆で共に思量しても、仏智を知ることはできない。

不退の菩薩たちが、その数、恒沙の如く、一心に共に思求しても、またまた、知ることはできない。

また舎利弗<9>に告げる。

無漏の不思議で、はなはだ深い繊細な妙法を、私はすでに、得て具えている。ただ、私がこの相を知り、十方の仏もまたしかり。

舎利弗<10>、まさに知るべし。

仏たちの語は、異なることがない。仏の説法するところのおいて、まさに大信力を生じなさい。世尊の法は、久くした後に、まさに真実を説く。声聞衆たち、および縁覚乗を求める者たちに告げる。私が苦縛を脱し、涅槃者へと逮得できるように、仏の方便の力をもって三乗を教え示し、衆生が処々で著しているのを、引導して出てこれるようにする。(以上、本文は五文字の偈)

 

 

その時、大衆の中に声聞たちがおり、漏を尽くした阿羅漢、阿若憍陳如、ひとしく千二百人、および声聞、辟支仏になる決意を発した比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷たちは各々が考えた。今者、世尊は、なぜいんぎんに方便を稱歎して、この言を作したのか。仏の得た法がはなはだ深く、難解であることは言説したところであり、意趣を知るのは難しく、一切の声聞、辟支仏は、そこに及ぶことができない。仏が一解脱の義を説き、われらもまた、此の法を得て涅槃へ到達する。しかしながら、この趣くところの義が分からない。

その時、舎利弗<11>は、

四衆の疑いの心を知り、自分もまた末了のまま、仏に告白して言った。

世尊、

如何なる因、いかなる縁で、仏たちの第一方便で、はなはだ深く微妙で難解な法をいんぎんに稱歎するのか。私は昔からそれ以来、いまだかつて仏よりこのような説を聞いたことがなく、今者、四衆は、すべて、皆が疑いにある。ただ願いは、世尊に、この事を敷演してほしい。

世尊

何故、はなはだ深く、微妙な、難解の法をいんぎんに稱歎するのでしょうか。

その時、舎利弗<12>は、

この意義を重ねて宣べたくて、しかも偈を説いて言った。(以下、本文は五文字の偈)

 

 

慧日大聖尊が久しくすると、この法を説く。自ら、力は畏れることなく、三昧、禅定、解脱等の不可思議の法を得ていると説いた。そして、道場で得たところの法は、問いを発することのできる者がない。私にも意を測るのは難しく、やはり問うことのできない者となる。問はないので、自ら、行道するところを稱歎して、智慧がはなはだ、微妙であると説いた。

仏たちの得たところは、無漏の羅漢(らかん)たち、および涅槃を求める者が、いま、みな、仏が何故この事を説くのかと、疑網に堕ちている。そして、縁覚を求める者、比丘、比丘尼、天、龍、鬼神たち、及び乾闥婆が、ひとしく互いに猶豫を抱き、相視して両足尊をあおぎ見て、この事は何の為と云えばよいのか仏に解説(かいせつ)を願っている。

声聞衆たちにおいて、仏は、私が第一と、説いたが、私は、いま自分の智における疑惑が了解できず、この為の究竟(くきょう)の法と、この為の行道するところを、仏の口より、子が生まれるかのように合掌(がっしょう)して、あおぎ見て待ち、微妙音の出るのを願っている。

時は、実説の為の如く、天、龍、神たちなど、その数は恒砂の如く、仏を求める菩薩たちは、おおかたの数、八万有り、また多くの万億の国の転輪聖王たちに至るまで、合掌して心より敬い(うやまい)、具足道を聞くことを欲している。(以上、本文は五文字の偈)

 

 

その時、仏は舎利弗<13>に告げた。

止、止、復説しないように。もしこの事を説けば、一切の世間の諸天および人は、みな、当に、おどろき疑う。

舎利弗<14>は、

重ねて白して仏に言った。

世尊、説くことをただ願う、説くことをただ願う。何故ならば、この会の無数、百、千、万、億、阿僧祇の衆は、かつて仏たちに会い、諸根は猛利で、智慧は明了で、仏の説くところを聞き、すなわち敬い信じる。

その時、舎利弗<15>は、

この義を重ねて宣べたくて、しかも偈を説いて言った。(以下、五文字の偈)

 

 

無上尊の法王、慮することなく、ただ説くのを願う。この会の無量の衆は、敬い、信ずる、能のある者である。(以上、本文は五文字の偈)

 

仏は舎利弗<16>を復止した。

もし、この事を説くと、一切世間の天、人、阿修羅は、みな、おどろき疑う。増上慢の比丘は、将に、大坑に墜ちる。その時、世尊は重ねて偈を説いて言った。(以下、本文は五文字の偈)

 

  止、止、説かないように。私の法は妙で難思である。増上慢の者たちは聞けば必ず敬わず、信じない。(以上、五文字の偈)

 

その時、舎利弗<17>は、

重ねて仏に白して言った。

世尊、説くことをただ願う、説くことをただ願う。私と等しく比較できる百、千、万、億と世世に、すでに、かつて仏より教化を受けた。これらのごとき、ひとしき人は、必ず敬い、信じ、長夜を安穏に、饒益するところ多き。

その時、舎利弗<18>は、

重ねてこの義を宣べたくて、しかも偈を説いて言った。(以下、本文は五文字の偈)

 

 

無上の両足尊、第一の法を説くことを願う。私は、仏の長子と為る。ただ分別して、垂れて説け。この会の無量の衆は、この法を信じ、敬うことができる。仏が、かつて、すでに、世世に教化したこれらの衆は、皆、一心に合掌して、仏の語を聴受したいと欲している。私とひとしく千二百および餘る仏を求める者、これらの衆のためゆえに、ただ分別して、垂れて説くことを願う。これひとしく、この法を聞いて、すなわち大歓喜(かんき)を生ずる。(以上、五文字の偈)

 

 

その時、世尊は、舎利弗<19>に告げた。

あなたは、いんぎんに、すでに三請した。豈(あに)不説を得ようか。あなたはいま、つまびらかに聴き、善くこれを思念せよ。吾、まさにあなたの為に、分別して解説する。この語を説いた時、会中にいた比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷、五千人等が、即、その座より起ち、仏に礼をし、しかも退いた。なぜならば、この輩は罪の根深く、重く、及び増上慢で、いまだ得ていないのを得たと謂い、いまだ證(証)のないのを證したと謂い、このような失(とが)でここに住まず。世尊は黙然としかも制止せず。

その時、仏は舎利弗<20>に告げた。

私はいまこの衆に、復して枝葉が無く、純に真実が有り。

舎利弗<21>よ、この増上慢の如き人が退き、また佳きかな。あなたはいま善く聴け。まさにあなたのために説く。

舎利弗<22>は言った。

ただしかり、世尊。願楽して聞くのを欲する。

仏は、舎利弗<23>に告げた。

如是の妙法は、仏、如来たちが時によりこれを説く。優曇鉢の華が、一つの時に、耳に現れるが如く。

舎利弗<24>よ、

あなた方は、まさに仏の説く所を信ぜよ。言うことに虚妄はない。

舎利弗<25>よ、

仏たちが、隨宜に説く法は、意趣が難解である。何故ならば、仏は無数の方便で、種々の因縁、譬喩、言辞で諸法を演説し、この法は、思量し、分別し、理解できるものではない。ただ、仏たちのみが知ることができる。何故ならば、仏たち世尊は((③唯(ただ)、一大事因縁))の故に世に出現した。

舎利弗<26>よ、

なぜその名を、仏たち世尊が、唯、一大事因縁の故に、世に出現したと云うのか。仏たち世尊は、衆生に仏知見を 開く ことができるよう欲し、清浄を得られるよう世に出現し、衆生に仏の知見を 示す ことを欲して、この世に出現し、衆生に仏知見を 悟る ことができるのを欲して、この世に出現し、衆生に仏知見の道に 入る ことができることを欲して、この世に出現した。

舎利弗<27>よ、

これが仏たちの世に出現した、一大事因縁の故である。

仏は、舎利弗<28>に告げた。

仏たち如来は、多くある所作を、但に、菩薩に教化したが、常に、一つの事の為である。ただ仏の知見を、衆生に示し、悟らせる。

舎利弗<29>よ、

如来は、但に、一仏乗の故をもって、衆生のために法を説く。餘りの乗、もしくは二、もしくは三でもない。

舎利弗<30>よ、

一切の、十方の仏たちの法もまた、同じである。

舎利弗<31>よ、

過去の仏たちが、無量、無数の方便、種々の因縁、譬喩、言辞をもって、しかも衆生のために多くの法を演説した。この法はみな、一仏乗のためゆえであった。この衆生たちは、仏たちより法を聞き、究竟して、みな、一切種智を得た。

舎利弗<32>よ、

未来の仏たちは、まさに世に出て、また無量無数の方便、種々の因縁、譬喩、言辞をもって、しかも衆生のために多くの法を演説する。この法は、みな一仏乗のためゆえであり、この衆生たちは、仏より法を聞き、究竟して、みな一切種智を得る。

舎利弗<33>よ、

現在、十方の無量百千万億の仏土の中、仏たち世尊は、饒益するところ多く、衆生を安楽にする。この仏たちは、また無量、無数の方便、種々の因縁、譬喩、言辞で、しかも衆生のために多くの法を演説する。この法はみな一仏乗のためゆえであり、この衆生たちは、仏より法を聞き、究竟して、みな一切種智を得る。

舎利弗<34>よ、

この仏たちは、但に菩薩を教化し、もって仏知見を衆生に 示し たいがゆえ、もって仏知見を衆生に 悟らせ たいがゆえ、衆生が仏知見に 入(はい)れる ようにしたいがゆえである。

舎利弗<35>よ、

私もいま、また復して、かくの如きで、衆生たちに、種々の欲があり、心で深く著すところを、その本性に隨い、種々の因縁、譬喩、言辞で、方便の力のゆえに、しかもそのために法を説く。

舎利弗<36>よ、

このようにみな一仏乗、一切種智を得るためのゆえである。

舎利弗<37>よ、

十方世界の中、なお二無く、なにをかいわんや、三があるだろうか。

舎利弗<38>よ、

仏たちは((④五濁))悪世に出た。いわゆる、(1)劫濁、(2)煩悩濁、(3)衆生濁、(4)見濁、(5)命濁と、かくの如きである。

舎利弗<39>よ、

劫濁、乱れる時、衆生が垢重、慳貪、嫉妒、と、多くの不善の根を成就するゆえに、仏たちは方便の力をもって、一仏乗において、分別して三を説く。

舎利弗<40>よ、

もし私の弟子で、自ら、阿羅漢、辟支仏と謂(おも)い、仏たち如来が、但に菩薩たちを教化した事を聞かず、知らなければ、これは仏弟子にあらず、阿羅漢にあらず、辟支仏にあらず。

また、舎利弗<41>よ、

この比丘、比丘尼たちが、自ら、すでに阿羅漢を得て、これで最後身の涅槃を究竟したと謂い、復して阿耨多罗三藐三菩提を志求しなければ、まさに知るべき、この輩は、みな増上慢の人である。なぜならば、もし比丘がいて、実に阿羅漢を得て、もしこの法を信じなければ、この処はない。仏の滅度の後を除き、現前に仏は無い。なぜならば、仏の滅度の後に、かくの如き経を受持、讀、誦、解義する者。この人は得難い。もし餘の仏に遇えたなら、この法中において了決を得ることになる。

舎利弗<42>よ、

あなたがたは、まさに一心に信解して、仏語を受持すべき。仏たち如来の言に、虚妄無く、餘乗は無く、ただ一仏乗である。その時、世尊はこの義を重ねて宣べたくて、しかも偈を説いて言った。(以下、本文は五文字の偈)

 

  ((⑤比丘、比丘尼増上慢を懐き、優婆塞は我慢、優婆夷は不信))、かくの如き四衆、等しくその数五千有り、自らその過を見ず、戒において缺漏し、その瑕疵を惜しみ護り、この小智はすでに出て、衆の中の糟糠は、仏の威徳のゆえに去り、これらの人、福徳はなはだすくなし、この法を受けるのに堪えきれず、この衆、枝葉が無くなり、ただ多くの真実が有り。

舎利弗<43>よ、

善く聴け。仏たちの得た法は、無量の方便の力で、しかも、衆生のために説く。衆生の心の念じるところ、種々の行道したところ、若干、多くの欲性、先世の善悪の業を、仏は、ことごとく、すでに、これを知り、多くの因縁、譬喩、言辞、方便力をもって、一切を歓喜できるよう、あるいは、修多羅を説き、伽陀および、いまだかつてない本事、本生、また因縁、譬喩、并衹夜、優婆提舎経を説いた。鈍根は小法を楽い、生死において貪著し、無量の仏たちにおいて深い妙法を行ぜず、衆苦で悩乱し、このために涅槃を説く。私は仏慧に入ることを得られるように、この方便を設けた。いまだかつて、あなたがたが等しく、まさに仏道を成すのを得ると説いていない。なので、いまだ説かないのは、説く時がいまだ至らないゆえで、いま、まさにその時で、決定して大乗を説く。私はこの九部法で衆生に隨順して説き、大衆に入るのを本と為し、もってのゆえに、この経を説く。心の浄い仏子があり、柔軟で、また根が利き、無量の仏たちのところで、しかも深く妙道を行じ、この仏子たちのために、この大乗経を説く。私はかくの如き人を記す。来世に仏道を成し、もって深く心に仏を念じ、浄戒をたもち、修するゆえに、これらが仏を得たのを聞けば、身に充満した大歓喜となる。仏は、彼の心の行じるのを知り、そのためのゆえに大乗を説く。声聞もしくは、菩薩は、私の説法するところを聞き、ないし一偈において、みな仏を成すこと疑いなし。十方の仏土の中、ただ一乗の法あり、二なく、また三なし。仏の方便説を除いては、但に、仮の名字をもって衆生を引導した。仏の智慧を説くゆえに、仏たちが世に出たのは、ただこの一事実で、餘の二は、すなわち真にあらず。終わりまで小乗をもって、衆生を済度せず。仏は自ら大乗に住み、その法を得たように、さだまった慧の力で荘厳し、これをもって衆生を度し、自ら大乗平等の法、無上道を証した。もし小乗をもって、ないし一人でも教化したら、私はすなわち慳貪に堕ちる。この事は為すべからず。もし人が仏に、信じ、帰すならば、如来は欺誑せず、また貪嫉の意も無く、多くの法の中で悪を断つ。ゆえに、仏は十方において、しかも独立して無所畏である。私も厳身の相をもって、光明で世間を照らし、実の相印を説くために、無量の衆の尊ぶ所とする。

舎利弗<44>よ、まさに知るべし。

私はもと誓願を立て、一切の衆が((⑥私のごとくに、ひとしく異なることなく、私が昔に願ったところの如く))、いま、すでに満足の者となり一切衆生を教化して、みなが仏道へ入れるようにする。もし私が衆生に遇い、仏道をもって教化に尽くせば、無知の者は錯乱(さくらん)し、迷惑し、教えを受けない。私はこの衆生が、いまだかつて善本を修してないのを知り、堅く五欲において著していて、癡愛のゆえに悩みを生じ、多くの欲と因縁をもって三悪道に墜堕し、六趣の中を輪廻し、多くの苦毒を備え受け、受胎の微形は、世世に常に増長し、薄徳で福が少ない人で、衆苦の逼迫するところに、邪見が入り稠林する。もし有り、もしくは無く、ひとしく止めて、この諸見に依れば、六十二を具足し、虚妄の法に深く著し、堅く受けて、捨てることができず、我慢となり、自ら矜を高くし、不実の心は諂曲となり、千万憶劫、仏の名字を聞かず、また正法を聞かず、かくのごとき人は度し難い。

これゆえに舎利弗<45>よ、

私はこのために方便を設け、苦道を尽くす多くを説き、もって涅槃を示す。私が涅槃を説いたといえども、これは、また真の滅にあらず。多くの法は本来より常に自ら寂滅の相で、仏子はすでに行道し、来世に作仏を得る。私は方便の力が有り、三乗の法を示して開き、一切の世尊たちは、みな一乗道を説き、いまこの大衆たちは、みな疑惑を除くのに応じる。仏たちの語は異なることなく、ただ一で、二乗なし。過去無数の劫に、無量の仏が滅度し、百千万憶種とその数は量るべからずで、かくの如き世尊たちは、種々の縁と譬喩、無数の方便の力で多くの法相を演説し、この世尊たちは、ひとしくみな一乗の法を説き、無量の衆生を教化し、仏道に入ることのできるようにした。また、大聖主たちは、一切世間を知り、天、人、群生類の深い心の欲するところを、更なる、異なる方便をもって第一義を助け顕す。もし衆生の類が有り、過去に多くの仏に値い、もしくは法を聞き、布施、或いは持戒、忍辱、精進、禅、智、と、ひとしく種々の福慧を修した。かくの如き人たちは、ひとしくみな、すでに仏道を成した。仏たちがすでに滅度し、舎利を供養する者は、万億種の塔を起て、金、銀、および玻瓈、硨磲と瑪瑙、玫瑰、瑠璃珠、清浄に、広く、厳飾して、多くの塔において荘校した。あるいは栴檀および沉水、木樒と餘材、甎瓦、泥土などで石廟を起てて有り、もしくは曠野の中において、積土して仏廟を成し、ないし童子が戯れて、砂を取り、仏塔を為した。かくのごとき人たちは、ひとしくみな仏道を成した。もし人が、仏のためゆえに、多くの形の像を建立し、刻雕して衆相を成せば、みなすでに仏道を成した。あるいは七宝で成すをもって、鍮石、赤、白銅、白鑞、および鉛、錫、鉄、木および與泥、あるいは膠、漆の布をもって、厳飾して、仏像を作した。かくのごとき人たちは、ひとしくみなすでに仏道を成した。

彩畫で仏像を作し、百福の荘厳した相を自ら作し、もしくは人を使っても、みなすでに仏道を成した。ないしは童子の戯れまでも、である。もし草木および筆、あるいは指の爪甲で、しかも畫いて仏像を作す。かくのごとき人たちは、ひとしく漸漸に功徳を積み、大悲心を具足し、みなすでに仏道を成した。但に菩薩たちを教化して、無量の衆を度脱した。もしくは人が塔廟において、宝像および畫像があれば、華、香、旛蓋を、敬う心でしかも供養した。もしくは人を使い楽(音楽)を作し、鼓を撃ち、角貝を吹き、簫笛(フルート)、琴、箜篌(ハープ)、琵琶、鐃銅鈑(シンバル)、かくのごとき多くの妙音を持ち尽くし、もって供養した。あるいは歓喜の心をもって歌を唄い、仏の徳を頌(しょう)じた。ないし一小音でも、みな、すでに仏道を成した。もしくは人が、心が散乱し、ないし一華をもってが畫像に供養すると無数の仏に漸見し、あるいは人があり、礼拝、あるいは、また但に合掌し、ないしは一手を挙げ、あるいは、また小さく低頭し、もってこれを像に供養し、無量の仏に漸見し、自ら無上道を成し、広く無数の衆を済度し、涅槃に入ること、餘り無く、薪の、火の滅し尽くすがごとくである。

もし人が、心が散乱し、塔廟に入り、中において一たび、 南無仏 と稱えると、みなすでに仏道を成した。過去の仏たちにおいて、在世あるいは滅後にもしこの法を聞くものあれば、みな、すでに仏道を成した。未来の世尊たちは、その数が無有量で、この如来たちは、ひとしくまた方便で法を説き、一切の如来たちは、無量の方便をもって衆生たちを度脱した。仏の無漏智に入り、もし聞法者あれば、無一不成仏である。仏たちの本の誓願は、私が仏道を行じ、普く、衆生もまた同じく、この仏道を得ることができるのを欲し。未来世の仏たちは、百千億の無量の多くの法門を説くといえども、その実は一乗の為で、仏たち両足尊は、法の無性の常を知り、仏種は縁により起こり、この故に一乗を説く。この法が、法位に住して、世間の相が常住となる。道場においてすでに知り、導師は方便を説き、天、人が供養し、現在、十方の仏は、その数が恒河の如く世間において出現し、衆生を安穏にするがゆえに、またかくのごとき法を説く。第一の寂滅を知り、方便の力のゆえをもって種々の道を示す、といえどもその実は、仏乗の為である。衆生の多くの行い、深く心に念ずるところ、過去の習業するところ、欲性、精進力および諸根の利と鈍を知り、種々の因縁、譬喩、また言辞で、随時に応じて方便を説いた。今、私もかくのごとく、衆生の安穏のゆえに、種々の法門を仏道において宣示し、私は、智慧の力をもって衆生の性格、欲望を知り、方便で多くの法を説き、みなが歓喜を得られるようにする。

舎利弗<46>よ、まさに知るべし。

私は、仏眼観をもって六道の衆生を見て、貧窮で福慧なく、生死の険道に入り、相は不断に苦が続き、深く五欲において著し、犛牛の尾を愛するがごとく、自蔽と貪愛をもって、盲瞑で見るところなく、大勢の仏を求めず、断苦の法と深く多くの邪見に入り、苦しみをもって捨苦を欲する。この衆生のためゆえに、しかも大悲を起こし、私は、始め道場に坐り、樹を観じ、また行を経て、三七日の中において、かくのごとき事を思惟した。私の得たところの智慧は微妙で最第一である。衆生は諸根が鈍く、楽と癡に盲著し、斯くの如くひとしき類を、いかにして度すべきか。その時、梵王たち、および諸天、帝釈、護世の四天王、および大自在天、あわせて餘りの諸天衆、眷属、百千万が恭敬し合掌し、礼をして、私に転法輪を請い、私は、すぐに自ら思惟して、もしくは但に仏乗を讃え、衆生は苦に没在し、この法を信じることができず、不信のゆえに法を破り、三悪道に墜ち、私はむしろ法を説かず、涅槃に疾入し、過去の仏を念じ、たずね、方便の力を行じたところ、私は、いま道を得たところで、また応じて三乗を説く。この思惟を作した時、十方の仏がみな現れ、梵音で私を慰め諭し、よきかな、釈迦文、第一の導師である。この無上の法を得て、多くの衆生の類いのために、分別して三乗を説く。少智は少法を楽い、自ら作仏を信ぜず。このゆえに方便をもって分別して多くの果を説く。といえどもまた三乗を説く。但に菩薩を教えるためである。

舎利弗<47>よ、まさに知るべし。

私は、聖師子が、深く、浄い微妙音で、 南無諸仏 、と稱えるのを聞き、また、かくのごとき念を作して、私は、濁悪の世に出て、仏たちの説いたところのごとくに、私もまた、隨い順行した。この事を思惟してから、すぐに波羅奈へ趣き、諸法寂滅相は、方便の力をもってのゆえに、言宣をもってするべからずで、五比丘のために説き、この名が転法輪で、涅槃音があり、および阿羅漢をもって、法僧の差別名とし、久遠の劫より来て、涅槃の法を示し、讃え、生死の苦を永尽する。と、私は常にかくのごとく説いた。

舎利弗<48>よ、まさに知るべし。

私は、仏子を見て、ひとしく仏道を志求する者,無量千万億、すべてが恭敬の心をもって、みな仏のところへ来至した。かつて、仏たちより聞いた、方便で説いたところの法を、私は、すぐにこの念を作した。如来は仏慧を説くための ゆえに出たのだ。いま正に、これがその時であると。

舎利弗<49>よ、

まさに知るべし。鈍根で小智の人は、憍慢者の相に著し、この法を信ずることができず、いま私は喜び、無畏になり、*1、但に無上道を説く。菩薩はこの法を聞き、疑網はみなすでに除き、千二百の羅漢は,ことごとくまた,まさに作仏する。三世の仏たちの説法の儀式のごとく、私もいま,またかくのごとく無分別の法を説く。仏たちは,出世を興すのに、遠くに懸り,値遇し難く、正に,世において使い出て、この法を説くのは、また難し、無量無数の劫、この法を聞くのは、また難し。能くこの法を聴く者、斯くの人、またまた難し。たとえば優曇華のごとし、一切がみな愛し、楽しむ。天、人の希有するところ、時時に、一度のみ出る。法を聞き、歓喜して讃え、ないし一言発し、すなわち、ためにすでに供養する。一切の三世の仏、この人、はなはだ稀有で、優曇華において過ぎる。あなた方は、ひとしく疑うことのないように、私は法王たちのために、普く大衆たちに告げる。但に一乗道をもって菩薩たちを教化する。声聞の弟子ではない。

あなた方ひとしく、舎利弗<50>よ、

声聞および菩薩、まさに知るべし。この妙法は、仏たちの秘要で、五濁の悪世をもって、但に諸欲を楽著する、かくのごとき衆生は、ひとしく終わりまで仏道を求めず。((⑧まさに来世の悪人は、仏の一乗を説くのを聞き、迷惑し、信受せず、法を破り、悪道に墜ちる))。慙愧有り、清浄に仏道を志し、求める者に、まさにかくのごときのために、ひとしく一乗道を広く讃える。

舎利弗<51>よ、まさに知るべし。

仏たちの法は、かくのごときに、万億の方便をもって、隨宜に、しかも法を説く。それを習学しない者は、これを暁了できない。あなた方はひとしくすでに既知し、仏たち世の師の、隨宜の方便の事に、復して多くの疑惑なく、心に大歓喜を生じ、自ら、まさに作仏を知るべし。(以上、本文は五文字の偈)

 

 

 

妙法蓮華経 ((①譬喩品))第三

その時、舎利弗は踊躍歓喜し、((②すぐに起ち合掌して))、尊顔を瞻仰して、しかも仏に白して言った。いま世尊より此の法音を聞き、心に踊躍を懐き、いまだかつてない思いを得た。なぜならば、私は、むかし、仏より、かくのごとき法を聞き、菩薩たちが作仏し、記を受けるのを見て、しかも、われらは、それに預る事なく、はなはだ、自ら感傷し、如来の無量の知見において失っていた。

世尊、私は常に独り、山林の、樹の下の処で、もしくは坐り、もしくは行じ、いつもこの念を作した。われら同じく法性に入り、なぜ如来は小乗の法をもって、しかも見て済度するのか。これは、われらの咎であり、世尊にあらずなり。なぜならば、もしわれらが、所因成就の、阿耨多羅三藐三菩提者として、説くのをまつならば、必ず大乗をもって、しかも度脱を得た。しかるに、われらは、隨宜に説くところの方便を理解できず、初めて聞く、仏の法に遇い、信受し、思惟して取証した。

世尊、私は昔より、以来終日、夜までもいつも自分を剋責し、しかも、いま、仏より、未聞の、いまだかつてない法を聞き、多くの疑悔を断ち、((③身も心も泰然とし、快ちよく安穏を得た))。

今日、やっと真の仏子と知り、仏の口より生まれ、法より化して生まれ((④仏法の分を得た))。その時、舎利弗は、この義を重ねて宣べたくて、しかも偈を説いて言った。(以下、本文は五文字の偈)

 

私がこの法音を聞き、未曾有のところを得て、心に大歓喜を懐き、疑網はみなすでに除き、むかし以来、仏の教えを蒙り、大乗において失わず、仏音は、はなはだ希有で、よく衆生の悩みを除き、私はすでに漏を尽くすのを得て、聞いてまた憂惱を除き、私は山谷において處とし、あるいは林、樹の下に在り、もしくは坐り、もしくは経行し、常にこの事を思惟し、嗚呼と深く自責し、なんで、しかも自らを欺いたのか。われらは仏子である。同じく無漏の法へと入り、未来において不能なのか、無上道を演説し、金色の三十二、十力の多くの解脱、同じく共に一つの法の中で、しかもこの事が得られないのか。八十種の妙好、十八の不共の法、かくのごときのひとしき功徳、しかも私はみなすでに失い、私が独り経行する時、大衆に在る仏を見て、名は十方に満ちて聞こえ、広く衆生を饒益し、自らはこの利を失うと思い、私はそのために自らを欺誑し。私は常に日夜においていつもこの事を思惟し、世尊にもって聞きたくて、ために失ったのか、ために失ってないのかと、私は常に世尊を見て、菩薩たちを稱讚し、これをもって日夜において、かくのごとき事を寿量した。いま、仏の音声を聞き、隨宜にしかも法を説き、無漏で難思議で、衆が道場へ至ることのできるようにする。私はもと邪見に著し、諸梵の為の師をこころざし、世尊は、私の心を知り、邪を抜き涅槃を説き。私はことごとく邪見を除き、空の法において証を得た。その時、心で自ら謂ったのは滅度において至るのを得ることで、しかもいまやっと自覚し、これは実の滅度にあらずで。もし作仏を得る時は三十二相を具え、天、人、夜叉の衆、龍神がひとしく恭敬する。この時やっと、滅を餘すことなく永尽したと謂えた。仏は大衆の中で、私がまさに作仏すると説き、かくのごとき法音を聞き、疑悔をことごとくすでに除き、初めて仏の説いたことを聞き、心の中で大きく驚き、疑い、将に魔が仏を作したにあらずやと、私の心を悩乱させたのだ。仏は種々の縁、譬喩、巧言をもって説き、その心は海のごとく安らかで、私は聞いて疑網を断ち、仏は過去世を説き、無量の滅度した仏が方便の中に安住し、また、みなこの法を説き、現在と未来の仏はその数、無量に有り、また多くの方便をもってかくのごとき法を演説する。今者のごとく、世尊は生まれて、および出家して、転法輪を得道し、またもって方便を説き、世尊は実の道を説き、波旬この事なし。これをもって私は定知し、これは魔の作仏にあらず、私が疑網に堕ちたゆえに、これを魔の所為と謂い、仏の柔軟な音が聞こえ、深遠ではなはだ微妙で、演暢する清浄な法に私の心は大歓喜し、疑悔は永くすでに尽き、実智の中に安住し、私の作仏はまさに定まり、天、人の敬うところのために、無上の法輪を転じ、菩薩たちを教化する。以上、本文は五文字の偈)

 

その時仏は、舎利弗に告げた。吾(私)は、天、人、沙門、婆羅門、ひとしく大衆中において説く。私が昔、かつて二万億の仏のところで、無上道のためゆえに、常にあなたを教化し、あなたは長夜に、私に随い学を受け、私は方便をもって、あなたのゆえに引導し、私の法中に生きた。

舎利弗よ、私は昔あなたに仏道を志願するよう教え、いま、あなたは、ことごとくを忘れ、そして自らすでに滅度を得たと思い込んだ。いま私は、あなたの憶念が、本の願いを行道できるように、還すのを欲するゆえに、声聞たちのために、この大乗経を説く。名は妙法蓮華、仏の護念したところの菩薩に教える法である。

舎利弗よ、あなたは未来世において、過去無量無辺不可思議劫において、若干、千万億の仏に供養し、正法をたもちたてまつり、菩薩が行じるところの道を具足し、まさに作仏を得る。号は華光(1)如来(2)應供(3)正偏知(4)明行足(5)善逝世間解(6)無上士(7)調御丈夫(8)天人師(9)仏(10)世尊 と曰う。国名は離垢。その土は平正で、清浄に厳飾し、安穏で豊楽、天・人は熾盛。瑠璃を地と為し、八つの交道があり、黄金を縄と為し、もってその側を界とし、その旁に各七宝の行樹があり、常に華と果があり。華光如来は、また三乗をもって衆生を教化する。

舎利弗よ、彼の仏の出た時、悪世にあらずといえども、本願をもってのゆえに三乗の法を説く。其の劫名は大宝荘厳である。なにゆえに名を大宝荘厳と曰うのか。その国の中では菩薩をもって大宝とするためのゆえである。彼の菩薩たちは無量無辺不可思議で算数、譬喩するところおよぶあたわずで、仏の智力にあらずば、知ることのできる者がない。もし行じるのを欲する時は、宝の華が足を承ける。この菩薩たちは初の発意にあらず、みな久しく徳本を植え、無量百千万億の仏のところで、浄い梵行を修め、恒に仏たちのところで、稱歎されるための仏慧を常修し、大神通を具し、一切諸法の門を善く知り、質直無為で志念堅固であり、かくのごとき菩薩が、その国に充満している。

舎利弗よ、華光仏は寿、十二小劫。王子のため、未だ作仏していない時を除く。その国の人民は、寿、八小劫、華光如来は、十二小劫を過ぎて、堅満菩薩に、阿耨多羅三藐三菩提の記を授け、比丘たちに告げ、この堅満菩薩が次にまさに作仏して、号を華足安行多陀阿伽度阿羅訶三貌三仏陀と曰う。その仏の国土は、また、復してかくのごとくである。

舎利弗よ、この華光仏が滅度の後、正法の住世は、三十二小劫、像法の住世は、また三十二小劫である。その時、世尊は、重ねてこの義を宣べたくて、しかも偈を説いて言った。(以下、本文は五文字の偈)

 

舎利弗は来世、成仏し、普く智は尊く、号名は華光と曰う。まさに無量の衆を済度し、無数の仏に供養し、菩薩行を具足し、十力ひとしき功徳で、無上道において証し、無量劫をすでに過ぎ、劫名は大宝厳、世界の名は離垢。清浄で瑕穢はなく、琉璃をもって地と為し、金の縄でその道の界とし、七宝の雑色樹は常に華、果実あり、彼の国の菩薩たちは、志念が常に堅固で、神通、波羅密は、みなすでにことごとく具足し、無数の仏のところで菩薩道を善く学び、かくのごときひとしき大士は、華光仏の教化したところである。仏が、ために王子の時、国を棄し、世の栄を捨て、最も末の後身において出家して、仏道を成し、華光仏は世に住み、寿、十二小劫、その国の人民衆の寿命は八小劫。仏が滅度の後、正法は世において三十二小劫住み、広く衆生たちを度し、正法がすでに滅尽し、像法は三十二、舎利は広く流布し、天・人が普く供養し、華光仏の為す所、その事はみなかくのごときである。その両足聖尊は、最勝で無論匹である。彼は即これあなた自身で、宜しく応じて自ら欣慶すべき。(以上、本文は五文字の偈)

 

その時、四部衆の比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷と天、龍、夜叉、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅緊那羅、摩候羅伽、ひとしき大衆は舎利弗を見て、仏の前において阿耨多羅三藐三菩提の記を受け、心が大歓喜して踊躍無量で、各々が著したところの上衣を身より脱ぎ、もって仏に供養した。釈提恒因、梵天王ひとしく、無数の天子と、また天の妙衣、天の曼陀羅華、摩珂曼陀羅華をひとしく仏において供養した。散ったところの天衣は虚空中に住し、((⑤しかも自ら迴転した))。多くの天の伎楽は百千万種、虚空中において、((⑥一時に俱作し))、多くの天の華が雨り、しかもこの言を作した。仏は昔、波羅奈において、初の法輪を転じ、いまやっと、復して無上最大法輪を転じる。その時、天子たちは重ねてこの義を宣べたくて、しかも偈を説いて言った。(以下、本文は五文字の偈)

 

むかし、波羅奈において四諦の法輪を転じ、分別して多くの法を説いた。五衆の生滅、いま復して最妙で無上の大法輪を転じる。この法は、はなはだ奥深く、信じることのできる者は少なく有り、われらは、昔以来より、世尊の説くのを数聞し、いまだかつて、かくのごときを聞かず。深妙の上法であり、世尊の説く、この法で、われらは、みな随い喜び、大智の舎利弗が、いま、尊い記を受けるのを得て、われらもまた、かくのごとく、必ず、まさに作仏を得る。一切世間において、もっとも尊く、上、有ることなし。仏道の叵を思議し、方便で随宜に説く。今世もしくは過去世および仏を見る功徳を、尽くして仏道に廻向する。(以上、本文の五文字の偈)

 

その時、舎利弗は、仏に白して言った。

世尊、私は、いま、復して疑悔はなく、親しく仏の前において阿耨多羅三藐三菩提の記を受けて、この千二百の心が自在の者たちが、むかし、住み学んだ地で、仏が常に教化して言ったのは、゛私の法は、生、老、病、死を離れることができ、涅槃を究竟する゛。と。この学、無学の人は、また各自が、我見および有無見をひとしく離れるのをもって、涅槃を得たと謂い、しかも世尊の前でいまだ聞いたことのないところを聞き、みな疑惑に堕ちた。

善哉、世尊、四衆のために、疑悔を離れられるように、その因縁を説くのを願う。

その時、仏は舎利弗に告げた。私は先に、仏たち世尊が、種々の因縁、譬喩、言辞を方便で説いたのは、みな阿耨多羅三藐三菩提のためと言ったではないかね。この多くを説いたところは、みな菩薩を教化するためのゆえである。

然るに舎利弗よ、

いま、まさに復して譬喩をもって更にこの義を明らかにする。多くの智ある者は((⑦譬喩をもって解を得る))。

舎利弗よ、

もし、国邑の聚落に、大長者あり。その年は衰邁し、財は無量に富み、田、宅および僮僕たちは多くあり、その家は広大で、((⑧ただ一つの門があり))、人衆たちは多く、一百、二百、ないし五百人その中に止まり住み、堂閣は朽ちたゆえ牆壁は隤落し、柱根は腐敗し、梁棟は傾き危く、周帀俱時に欻然と火が起こり、舍宅が焚燒し、長者の子たちはもしくは十、二十、あるいは三十に至り、この宅の中にいて、長者はこれを見て大火が四面より起き、すぐに大驚怖で、しかも、この念を作した。私は、この焼けた門のところにおいて安穏に出るのが得られるといえども、しかして子たちはひとしく火宅の内において嬉戯に著して楽しみ、不覚不知のまま、おどろかず、おそれず、火が来て身は逼迫し、苦痛がおのれに切迫しても、心は厭患せず、出る意も求めないでいる。

舎利弗よ、

この長者はこの思惟を作した。私は身と手に力があるといえども、まさに衣裓をもって、もしくは几案をもって、舎宅より出そうと、復して、更に思惟し、この舎宅はただ一つの門で、しかも、復して狭小で、子たちは幼稚で知識がまだなく、戯処に恋著し、或いは、まさに火のために焼かれるところに墮落している。私が、まさに、ために怖畏の事を説き、この舎がすでに焼かれ、火のところのために焼害されないように、宜時に疾出する。これをすでに念じて思惟したところのごとく、子たちに具告し、あなたらは速く出るように、と父が憐愍し、善言で誘喻したが、しかして子たちはひとしく嬉戯に楽しみ著し、信受しようとせず、驚かず、畏れず、了解して出る心がない。また、復してこの火が何者で、舎のための何者で、何と云うための失かも知らずに、但に東に西に走り戯れ、しかもすでに父を視ている。この舎はすでに大火のために焼かれるところで、私および子たちがもし出ない時には、必ずそのために焚かれるところとなる。私はいままさに方便を設け、子たちをひとしく、その害より免れるのを、得られるようにしよう。父は子たちの先の心を知り、各このみのところがあり、種々の珍しく玩ぶ奇異の物で、情が必ず楽著するとして、しかも告げて言った。あなたらが玩好すべきところの希有で、得がたく、君が、もし取らなければ、あとで必ず憂悔する。このごとき種々の羊車、鹿車、牛車がいま門の外に在り、もって遊戯できる。あなたらはこの火宅において宜速に出て来て、君のほしいまま、みな、まさに君に与えよう。

その時、子たちは、父の説くところの珍玩の物を聞くと、その願いに適するゆえに心が各、勇銳に互いに推排し相い、競って共に馳走して火宅より争い出た。

この時、長者は子たちがひとしく安穏に出たのを見て、みな四衢の道の中の露地で、しかもすわり、復して障礙なく、その心は泰然として、歓喜踊躍して、時に、子たちはひとしく各、父に白して言った。父が先に許したところの玩好の具で洋車、鹿車、牛車を、時に、賜与を願う。

 

舎利弗よ、その時、長者は各、子たちにひとしく賜与したのは一大車である。その車は高く、広く、衆宝で荘校され、欄楯が周布され、四面に鈴がかかり、またその上において幰蓋が張設され、また珍奇な雑宝をもって、しかも厳飾され、宝縄で交絡し、多くの華纓が垂れ、重ねて婉筵が敷かれ、丹枕が安置してあり、白牛をもって駕し、膚色は充潔し、形体は殊好で、大筋力があり、歩行は平正、その疾さは風のごとくで、また多くの僕従が、しかも待衛する。なぜならば、この大長者は財が富み、無量で、種々の多くの蔵はことごとくみな充溢し、しかもこの念を作した。私は財物に極まりなく、下劣の小車を子たちにひとしく与えるのに、もって応ぜず。いまこの幼童はみなこれ吾が子で、愛に偏党匱なし。私にはかくのごとき七宝の大車が無量にあり、まさにひとしい心で応じて、各各に与え、差別よろしからず。なぜならば、私のこの物を一国に周給しても、猶、尚、匱(とぼ)しからず。いかにいわんや、子たちにである。この時、子たちは各、大車に乗り、いまだかつてない、もとの望むところにあらずを得た。

舎利弗よ、あなたの意においてはどうだろう。この長者がひとしく子たちに珍宝の大車を与えたのは、寧に虚妄にあらずや。

舎利弗は言った。不也(ふなり)、世尊。この長者は、但に、子たちを火の難より、免れるのを得させるのに、その躯命を全うし、虚妄のためにあらず。何をもってのゆえか、もし全ての身命が、玩好の具をすでに得るための便ならば、いわんや、復して方便は、彼の火宅において、しかもこれを拔済した。

世尊、もしこの長者が、ないし最小の一車を与えずも、猶、虚妄ではない。何をもってのゆえか、この長者は先にこの意を作した。私が方便をもって子が出るのを得られるようにする、と。この因縁をもって、虚妄はなきなり。何をかいわんや、長者は自ら財に富み、無量と知り、子たちを饒益させたくて、ひとしく大車を与えた。

仏は舎利弗に告げた。善哉、善哉、あなたの言ったところのごときである。

舎利弗よ、如来もまた復してかくのごとく、すなわち、一切世間の父のために、多くの怖畏、衰悩、無明、闇蔽において、餘すことなく永尽し、しかも無量の知見力を、ことごとく成就して無所畏であり。大神力および智慧力があり、方便、智慧波羅密を具足し、大慈大悲で常に懈惓なく、恒に善事を求め、一切を利益し、しかも朽ちたゆえの火宅の三界に生まれ、生、老、病、死、憂悲、苦悩、愚痴、闇蔽、三毒の火の衆を済度するため、阿耨多羅三藐三菩提を得られるように教化する。衆生たちを見て、生老病死のために、憂悲苦悩で煮たり、焼かれるところ、また五欲、財利をもってのゆえに種々の苦を受け、又(また)貪著の追求をもってのゆえに、現に多くの苦を受け、後に地獄、畜生、餓鬼の苦を受け、もしくは天上に生まれ、および人間として在り、貧窮困苦、愛別離苦、怨憎会苦、かくのごとき、ひとしき種々の多くの苦しみの衆生が、その中に在り、歓喜遊戯し、不覚不知で、驚かず、怖れず、また厭を生ぜず、解脱を求めず、この三界の火宅において東に西に馳走し、大苦に遭うといえども、もって患となさず。

舎利弗よ、仏はすでにこれを見て、この念を便じ作す。私は衆生の父と為し、応じてその苦難を抜き、無量無辺の仏の智慧の楽しみを与えて、それを遊戯できるようにする。

舎利弗よ、如来は復してこの念を作し、もしくは私が、但に、神力および智慧力をもって、方便において捨て、衆生たちのために、如来の知見力を無所畏と讃えたとしても、衆生はこれももって得度することは不能である。なぜならば、この衆生たちは、いまだ生老病死、憂悲の苦悩を免れずに、しかも三界の火宅で焼かれるところとなる。いかなる由で仏の智慧が理解できるだろうか。

舎利弗よ、彼の長者のごとく、復して身と手に力があるといえども、これをもちいず、但に、殷勤に方便をもって、子たちを火宅の難より勉済した。しかるのち、各、珍宝の大車を与えた。如来もまたかくのごときである。力があり無所畏といえども、しかもこれをもちいずに、但に、智慧の方便をもって、三界の火宅において衆生を抜済した。声聞、辟支仏、仏乗の三乗を説くために、しかもこの言を作す。あなたらは、三界の火宅に楽住を得ること莫れ。粗弊な色、声、香、味、觸に、貪ること勿れなり。もし貪著し生愛すれば、すなわちために焼かれるところとなる。あなたは速かに三界を出て、三乗の声聞、辟支仏、仏乗をまさに得るべし。私はいま、あなたのために、この事を保任する。終わりまで不嘘なり。あなたらは、但に、まさに勤修精進するべし。如来は、この方便をもって、衆生を誘進する。復してこの言を作す。あなたらは、まさに知るべし。この三乗の法は、みなこれ聖所より稱歎され、自在で無繋であり、依り求めるところなく、この三乗にのり、無漏根、力、覚道、禅定、解脱、三昧をもって、ひとしく、しかも自ら娯楽し、無量の安穏と快楽の便を得る。

舎利弗よ、もし衆生があって、内に智性があり、仏、世尊より法を聞き、信受し、殷勤に精進し、速やかに三界より出たくて、自ら涅槃を求めるならば、この名が声聞乗で、彼の子たちが、羊車を求めるために、火宅において出たごとくである。もし衆生があって仏、世尊より法を聞き、信受し、殷勤に精進し、自然の慧を求め、独り善寂を楽しみ、深く諸法の因縁を知る。この名が辟支仏乗で、彼の子たちが鹿車を求めるために火宅において出たごとくである。もし衆があって仏、世尊より法を聞き、信受し、勤修精進し、一切智、仏智、自然智、無師智、如来知見力、無所畏を求め無量の衆生の安楽を愍念し、天、人を利益し一切を度脱する。この名が大乗菩薩で、この乗を求めるゆえに名を摩訶薩と為す。彼の子たちが牛車を求めるために、火宅において出たごとくである。

舎利弗よ、彼の長者は、子たちを見て、ひとしく安穏に火宅より出るのを得て、無畏の処にいたり、自らの財富無量を惟い、もってひとしく大車を、しかも子たちに賜えた。如来もまた、復してかくのごときである。一切衆生の父と為り、もし無量億千の衆生が仏教の門をもって、三界の苦、怖畏の険道を出て、涅槃の楽しみを得たならば、如来はその時、この念を作す。私には、無量無辺の智慧力と、無畏にひとしき仏たちの法蔵がある。この衆生たちは、みな、これ、わが子で、ひとしく大乗を与え、独りで滅度を得る人がないように、みな如来の滅度をもって、しかもこれを滅度する。この衆生たち、三界を脱した者は、ことごとく仏たちの禅定、解脱をひとしく娯楽の具として与え、みなこれ一相、一種、聖所で稱歎され、浄妙で第一の楽をよく生ずる。

舎利弗よ、彼の長者は、初め、三車をもって子たちを誘引し、しかるのち、但に宝物で荘厳した安穏第一の大車を与えた。しかして彼の長者は虚妄なき咎である。如来もまた、復してかくのごときで、虚妄あることなしで、初めに三乗を説き、衆生を引導して、しかるのち、但に大乗をもって、しかもこれを度脱した。なにをもってのゆえか。如来は、無量の智慧力、無所畏と多くの法の蔵があり、一切衆生に大乗の法を与えられる。但に尽きることなく受けることができる。

舎利弗よ、

この因縁をもってまさに知るべし。仏たちの、方便の力ゆえに、一仏乗において、分別して三を説く。仏は重ねてこの義を宣べたくてしかも偈を説いて言った。(以下、本文は四文字の偈)

 

譬えば長者に一大宅あり、その宅、久しきゆえに、しかも、復して頓弊し、堂舍は高く、危なく、柱根は摧朽し、梁棟は傾斜し、基陛は隤毀し、牆壁は圮坼し、泥塗は阤落し、覆苫は乱れ墜ち、椽梠は差脫し、周障は屈曲し、雜穢は充徧し、五百人が、その中に止まり住み、鴟梟(フウロウ)、鵰鷲(ワシ), 烏鵲(カササギ)、鳩鴿(ハト)、蚖蛇(毒ヘビ)、蝮蠍(サソリ)、蜈蚣(ムカデ)、蚰蜒(ゲジ)、守宮(イモリ)、百足(ムカデ)、鼬貍(イタチ)、鼷鼠(ネズミ)、多くの悪虫の輩が、交橫し、馳走し、屎尿臭處、不淨が流溢し、蜣蜋の多くの虫が、しかもその上、狐、狼、野干が咀嚼し踐踏し、嚌齧した死屍、骨肉が狼藉し、これに由り、羣狗、競い来りて搏撮し、飢羸(うえてよわる)し、慞惶(おそれる)し、處處で食を求め鬪諍し、摣掣(つかむ)し、嘊喍(いがみあい)し、嘷吠(ほえる)する。その舍は恐怖で、変状はかくのごとし。處處に魑魅魍魎(ちみもうりょう)の夜叉や惡鬼は、人肉を噉食し、毒虫の属、諸悪の禽獣は、孚乳產生し、各自で藏護し、夜叉は競い来て、爭い取りて、これを食す。すでに飽食し、悪心は転じて熾んになり、鬪諍の声はなはだ怖畏すべき。鳩槃茶の鬼は蹲踞(まるくかがむ)し、土埵で或る時は地を離れ一尺、二尺と徃返し、遊行し、縱に逸しては嬉戲し、狗の両足を捉え、撲して声を失わせ、脚をもって頭に加け、狗は怖れ、自らは楽しむ。復して鬼たちがあり、その身の長く大きく、躶形は黑く瘦せて、常にその中に住み、大きな悪声を発し、呌呼して食を求め、復して鬼たちがあり、その咽は針の如く、復して鬼たちがあり、首が牛の頭のごとく、あるいは人肉を食す。あるいは、復して狗を噉らい、頭髮髼乱し、殘害で兇険。飢えと渴きで逼迫するところ、叫喚し馳走し、夜叉、餓鬼、悪鳥獣たちは、飢えて急ぎ、四方に向い、窻牖を窺い見る。かくのごとき多くの難と恐畏が無量で、この朽ちた宅のゆえに一人に属し、その人が近くに出ていまだ久しくない間に、後の宅舎において、忽然に火が起き、四面に一時にしてその燄が俱熾し、棟梁や椽柱は爆声で震裂し、摧折墮落し、牆壁は崩れて倒れ、鬼神たちは、ひとしく声を揚げて大きく叫び、鵰鷲(おおわし)や鳥たち、鳩槃茶はひとしく周慞し、惶怖し、自出不能で、悪獣や毒虫が孔穴に藏竄し、毘舍闍鬼もまたその中に住み、福德の薄いゆえに火のために逼迫するところ、共に殘害し相い、血を飲み肉を噉う野干の属。ならびにすでに前に死んだ大悪獣たちを競って来りて食噉す。臭い煙を熢㶿させ、四面が充塞し、蜈蚣(ムカデ)、蚰蜒(ゲジゲジ)、毒蛇の類いは、火で焼かれるところのために争って穴より走り出て、鳩槃茶鬼が、隨取して、しかも食す。また餓鬼たちは頭上に火が燃え、飢渴と熱に悩み、周慞して悶走し、その宅は、かくのごとくはなはだ怖畏すべきで、毒害のある火災となり、衆難は一にあらず。この時、宅主は、門の外で立っていて、人の言うのが聞こえ、汝の子たちがひとしく、先に遊戯が因で、此の宅に来入し、稚小で、無知で、歡んで娛樂に著していて、長者は、聞くと、驚き、火宅に入り、方宜に救済しようと、燒害の無きように、子たちに告喻し、衆の患難を説き、惡鬼や毒虫、災火が蔓延し、衆苦は次第に相い続き絶えず、毒蛇、蚖蝮および夜叉たち鳩槃茶鬼、野干、狐、狗、鵰鷲(オオワシ)、鴟梟、百足(ムカデ)の属は飢渴で悩み急ぎ、はなはだ怖畏すべき此の苦難のところに、いわんや復して大火である。子たちは無知で、父の誨を聞いたといえども、なお楽しみに著するゆえに、嬉戯はおわらず。この時、長者は、しかしてこの念を作す。子たちは、此のごとく私を益して、愁悩させる。いま此の舎宅は楽しむべくは一つも無く。しかも子たちはひとしく耽湎し嬉戯として、私の教えを受けず、将に火の為に害される。すぐに思惟を便し、多くの方便を設け、子たちにひとしく告げる。私に種々の珍玩の具がある。妙宝の好い車で、羊車、鹿車、大牛の車が、いま、門の外に在る。きみらが出て来れば、吾(私)がきみらのために此の車を造作して、隨意に楽しむところで、もって遊戯できる。子たちは此のごとき多くの車を、説くのを聞き、即時に奔競して、馳走して、しかも出て空地に於いて到り、多くの苦難を離れた。長者は子を見て、火宅より出るのを得て、四衢において住し、師子の座に坐り、しかも自ら慶んで言った。私はいま快楽である。此の子たちはひとしく、生育するのがはなはだ難しく、愚かで、小さく、知はなく、しかも険宅に入り、多くの毒虫たちは魑魅(ちみ)畏るべきで、大火の猛燄が四面に俱起し、しかも此の子たちは楽を貪り嬉戯し、私はすでにこれを救い、難を脱するを得させられた。これゆえに諸人よ、私はいま快楽である。その時、子たちは父が安坐するのを知り、みな父のところに詣でて、しかも父に白して言った。われらに三種の宝車を賜うよう願う。前に許したところのごとく、子たちが出て来たら、まさに三車をもってあなたの欲しいところに隨う、と。いままさに、この時で、垂れて給與を惟う。長者は大富で、庫藏に衆多の金、銀、瑠璃、硨磲、碼碯、もって衆の宝物で多くの大車を造り、荘校し厳飾し、周帀に欄楯を、四面に鈴を懸け、金の縄で交絡し、真珠で羅網し、其の上に張施し、金の華、多くの纓が處處に垂下し、衆の綵で雑飾し、周帀を圍繞し、柔軟な繒纊(ワタの類)をもって茵褥(しきもの)と為し、上妙の細い㲲(毛織りの布)は価値千億で、鮮白で淨潔、もってその上に覆う。大白牛があり、肥壮で多力、形体は殊に好く、もって宝車を駕する。儐從たちは多く、しかもこれを侍衛し、もってこの妙車をひとしく子たちに賜う。子たちはこの時、歓喜踊躍でこの宝車に乗り、四方において遊び、快楽に嬉戯、自在で無礙である。

舎利弗に告げる。私もまたかくのごとく、衆聖中尊であり、世間の父として、一切衆生は、みなこれ吾が子で、深く世楽に著し、慧の心あることなく、三界は安きことなく、なお火宅のごとし。衆苦が充満し、はなはだ怖畏すべきで、常に生老病死の憂患あり、かくのごとき火が熾然と息たえず。如来は、すでに三界の火宅を離れ、寂然とした、閒居の林野に安處する。((⑨いま此の三界))は、みな私の有で、その中の衆生は、ことごとくこれ吾が子で、しかも、いまこの處は、諸患難が多く、ただ私一人が、よくために救護する。復して教詔するといえど、しかも信受せず、諸欲において染まり、貪著の深きゆえに、この方便をもって、ために三乗を説き、衆生たちに、三界の苦を知らせて、演説して開き、示し、世間の道を出る。この子たちは、ひとしくもしくは、心を決定して、三明および六神通を具足し、縁覚や不退の菩薩を得ることあり

あなた舍利弗よ。私は衆生のために、此の譬喩をもって一佛乗を説く。あなたらは、もしよくこの語を信受すれば、一切みな、まさに仏道を成すを得る。この乗は、微妙で、清淨第一で、多くの世間において、上あることなしのために、仏の悅可するところであり、一切の衆生が稱讚し、供養して礼拜に応ずるところで、無量億千の多くの力、解脱、禅定、智慧および、佛の、餘法を得るかくのごとき乗であり、子たちがひとしく日夜の劫数を、常に遊戯するのを得て、菩薩たちとおよび声聞の衆と此の宝乗に乗り、まっすぐに道場に至る。この因縁をもって十方に諦求し、仏の方便を除いては、更には餘乗なしである。

舎利弗に告げる。あなたと人々たちは、ひとしくみな吾が子で、私は、すなわち、これ父である。あなたらは、累劫のあいだ、衆苦に焼かれるところを、私がみな済拔し、三界より出られるようにする。私が先に、あなたらに滅度で、但に、生死が尽きる、と、説いたといえども、しかして実は不滅で、いま、ただ仏の智慧を作して、応ずるところである。もし菩薩があり、此の衆の中において、よく仏たちの実の法を、一心に聴き、仏、世尊たちが方便をもって衆生を化導し、智で深く愛欲に著し、これらのためゆえに苦諦を説くにおいて、衆生は心が喜び、いまだかつてない思いを得る。仏の説く苦諦は、真実と異ることなし。もし衆生があり、苦の本を知らず、深く苦の因に著し、暫くも捨てることができず、これらのためゆえに方便で道を説き、多くの苦の因するところは、貪欲が本のため、もし貪欲を滅っすれば、依り止まるところなく、多くの苦を滅し尽くすのを第三諦と名づく。滅諦のためゆえに道において修行し、多くの苦縛を離れ解脱の名を得る。この人は何において、しかも解脱を得るのか。但に虛妄を離れ、名を解脱と為す。その実はいまだ一切の解脱を得ず。仏は、この人をいまだ実の滅度ではないと説き、その人はいまだ無上道を得ていないゆえである。私の意は、滅度に至れるのを欲っせず。私は法王と為し、法において自在に衆生を安穏にするゆえに世において現れる。

 あなた舍利弗よ、私は、此の法印で、世間を利益させたいためゆえに説く、遊方のところで、妄りに宣伝することなかれ。もし聞く者があり、隨喜して頂受するならば、まさに知るべし。この人は阿鞞跋致である。もし此の経法を信受する者があれば、この人は、すでに、かつて過去の仏を見て、恭敬し、供養し、またこの法を聞き、もし人あって、よくあなたの説くところを信じたならば、すなわち私を見たと為す。また、あなたおよび比丘僧、ならびに菩薩たちを見る。この法華経は、深い智で説くため、浅識でこれを聞くとも、迷惑し、解せず。一切の声聞および辟支仏は、この経の中において力がおよばないところである。

あなた舎利弗よ、此の経においては、なお信をもって得入する。いわんや餘の声聞、その餘の声聞は、仏語を信じるゆえ此の経に隨順する。己の智分に非ず。

また舎利弗よ。憍慢で、懈怠で、我見を計る者に、この経を説く莫れ。凡夫は浅識で、五欲に深く著し、聞いてよく解せず、また、ために説く勿れ。もし人信ぜず、この経を毀謗するならば、すなわち一切の世間の仏種を断つ、或いは復して顰蹙し、しかも疑惑を懐く。あなたは、まさに説くのを聴け。此の人の罪報は、もし仏が、在世、もしくは滅度の後に、このごとき経典に、その誹謗あって、経を読誦し、書持する者あるを見て、軽賤し、憎嫉し、しかも結恨を懐く。此の人の罪報を、あなたは、いま、復して聴け。その人命終して阿鼻獄に入り、一劫を具足し、劫が尽きて更生する。かくのごとく展転し無数劫に至り、地獄より出て、まさに畜生に堕ち、もしくは狗、野干、その形は頏瘦で黧黮疥癩し、人の觸嬈するところである。また復して人がためにこれを悪賤するところで、常に飢渴に困り、骨肉が枯竭し、生きて楚毒を受け、死して瓦石を被り、仏種を断つゆえに、この罪報を受ける。もしくは駱駝と作し、あるいは驢と生まれる中で、身は常に負重となり、多くの杖捶が加わり、但に水草を念じても、餘りに、知るところもなく、この経を謗じたゆえに、かくのごとき罪を獲る。ある野干を作し、聚落に入り来て、身体は疥癩し、また一目なく、童子たちのために擲打されるところ、多くの苦痛を受け、ある時は死に到り、此のすでに死において、更に身を蟒(ウワバミ)と受け、その形は長大で五百由旬、聾騃で無足で、宛転し腹行する。小虫たちのために呃食されるところとなり、晝夜に苦しみを受け、休息あることなしで、この経を謗じたゆえにかくのごとき罪を獲る。もしくは人と為し得ても、諸根は闇鈍で矬陋(ひくくいやしい)で癴躄(イザリ)、盲聾で背傴(セムシ)で、言説するところありとも、人は信受せず、口の気は常に臭く、鬼魅の著するところで、貧窮で下賤、人のために使われるところ、多病で痟瘦で依怙するところなく、親附の人といえども、人は意に在ぜず。もしくは得るところあるも、尋ねて復して忘失する。もしくは医道を修すれど、順方に治病しても、更に他疾を増し、あるいは復して死に到る。もしくは自ら病いありとも、救療する人なし。もしくは他に反逆して、抄劫に竊盜し、かくのごときひとしき罪で橫罹し、それが殃じて、このごとき罪人は永く仏、衆聖の王の説法し、教化するのを見ず。このごとき罪人は常に難處に生まれ、狂聾し、心乱れ、永く法を聞かず、無数の劫において恒河沙のごとく生まれて輒に聾啞で、諸根は不具で、常に地獄に處し、遊園を観るがごとし。餘る悪道に在りて、すでに舎宅のごとく駝、驢、豬、狗、これその行處は、この経を謗じたゆえで、かくのごとき罪を獲る。もしくは人と為し得て、聾、盲、瘖啞、貧窮、諸衰をもって自ら荘厳し、水腫、乾痟、疥癩、癰疽、かくのごときひとしき病をもってのため、衣服、身が常に臭い處、垢穢で、不淨で、 深く我見に著し、瞋恚が增益し、婬欲が熾盛で、禽獣えらばず。この経を謗じたゆえに、かくのごとき罪を獲る。

舎利弗に告げる。この経を謗じた者、もし、その罪を説かば、窮劫尽きずである。もってこの因縁のゆえに私はあなたに語る。無知の人の中で此の経を説く莫れ。もしは利根あり、智慧が明了で、多聞、強識で仏道を求める者、かくのごときの人にならば、ために説くべきである。もし人が、かつて億百千の仏を見て、多くの善本を植え、心が深く堅固であれば、かくのごとき人ならば、ために説くべきである。もし人が精進し、常に慈心を修し、身命を惜しまないならば、ために説くべきである。もし人が恭敬し、異心あることなく、多くの凡愚を離れ、独り山澤に處する、かくのごときの人ならば、ために説くべきである。

また、舍利弗よ。もしある人を見て、悪知識を捨て、善友に親近する。かくのごとき人ならば、ために説くべきである。もし仏子を見て、戒をたもち、清潔で、浄明珠のごとくに、大乗経を求める。かくのごとき人ならば、説くべきである。もし人、瞋りなく、質直で、柔軟で、常に一切を愍み、仏たちを恭敬する。かくのごとき人ならば、ために説くべきである。復して仏子あり、大衆中において、清浄な心をもって、種種の因縁、譬喩、言辞で無礙に説法する。かくのごとき人ならば、ために説くべきである。もし比丘あり、一切智のために四方に法を求め、合掌して頂受し、但に楽しく大乗経典を受持し、ないし餘経の一偈も受けず。かくのごとき人ならば、ために説くべきである。至心の人のごとくに仏舍利を求め、かくのごとく経を求め、すでに頂受するのを得て、その人、復して餘の経を志求せず。またいまだかつて外道の典籍を念ずることなし。かくのごとき人ならば、ために説くべきである。

舎利弗に告げる。私はこの相を説き、仏道を求める者が窮劫して尽きず。かくのごとくに、ひとしき人は、すなわちよく信解する。あなたは、まさにために妙法華経を説くべきである。

(以上、本文は四文字の偈)

 

 

 

 

妙法蓮華経((①信解品))第四

その時、慧命 須菩提、摩訶 迦旃延、摩訶 迦葉、摩訶 目揵連は、仏より、いまだかつてないところの法を聞き、世尊が舎利弗に、阿耨多羅三藐三菩提の記を授け、希有の心を発して、歓喜で踊躍し、すぐに座より起ち、衣服を整え、右肩を偏袒し、右膝を地に著し、一心に合掌し、曲躬して恭敬し、尊顔を瞻仰し、しかも仏に白して言った。

われらは居僧の首で、並びに年は朽邁で、自らすでに涅槃を得たと謂い、堪任するところなく、復して、進んで阿耨多羅三藐三菩提を求めず、世尊が、往昔に法を説き、すでに久しく、私は時に、座して在り、身体は疲懈し、但に空を念じて無想無作で、菩薩の法において神通に遊戯し、仏国土を浄くし、衆生を成就させ、心は喜楽せず。なぜならば、世尊はわれらを三界において出し、涅槃の證を得て、また、いま、われらは年すでに朽邁し、仏が、菩薩に阿耨多羅三藐三菩提を教化するにおいて、好楽の心の一念を生ぜず、われらがいま仏の前において声聞に阿耨多羅三藐三菩提の記を授くのを聞き、いまだかつてなく、心がはなはだ歓喜し、謂わずもいま、忽然と希有の法を聞くのを得るにおいて、深く自ら慶幸し、大善利を獲て、無量の珍宝を求めずして自ら得た。

世尊。

いま、われらは譬喩を楽説し、もってこの義を明らかにする。

譬えば、もし人あり、年、既に幼稚にして、((②父を捨て逃逝し))、他国で久しく住み、或は十、二十、五十歳に至り、年、既に長大で、((③加えて復して窮困し))、四方に馳騁し、もって衣食を求め、漸漸に遊行し、本国へ遇向し、その父が先に来て、子を求めて得られず、中で一城に止まる。その家は大きく富み、財宝は無量で、金銀、瑠璃、珊瑚、琥珀、玻瓈珠など、その多くの倉庫は、ことごとくみな盈溢していた。多くの僮僕、臣佐、吏民があり、象、馬、車乗、牛、羊は無数で、出入りは息利で、商估、賈客は他国まで徧じており、また、はなはだ衆多である。

時に、貧しい窮子は多くの聚落を遊び、国邑を経歴し、遂に父の止まる城のところに到いた。父は子を毎念し、子と別れて五十餘年、しかもいまだかつて人に向い、このごとくのことを説かず。但に自ら思惟し、((④心に悔恨を懐き))、自ら念じ、老いて朽ち、多くある財物、金、銀、珍宝は倉庫に盈溢し、子息有ることなしで、一旦終没したなら財物は散失し、委付するところなく、これをもって殷勤にその子を毎憶し、復してこの念を作す。

私がもし子を得て財物を委付すれば、坦然と快楽で、復して憂慮なしである。

世尊。

その時、窮子は、傭賃で展転し、父の舎に遇到し、門の側に立ち住み、その父が師子の床に踞し、宝几に足を承けるのを遙見し、婆羅門や刹利、居士たちがみな恭敬し、圍繞し、價直千万の真珠の瓔珞をもって、その身を荘厳し、吏民と僮僕が白拂を手に執り左右に侍立し、宝の帳をもって覆われ、多くの華旛が垂れ、香水が地に灑がれ、衆の名華が散り、宝物が羅列し、内より取り出しては与え、かくのごときにひとしく種種に厳飾され、威德が特に尊く、窮子は大きな力と勢いのある父を見て、すぐに恐怖を懷き、ここに来至したのを悔い、竊かにこの念を作した。

ここは、或いは王、或いは王とひとしく、私の力で傭われて物を得る處にあらず。貧しい里に往至するにしかず。衣食を易く得る肆力の地あり。もし久しくここに住すれば、或いは見て逼迫し、私は強使を作す。

この念をすでに作し、疾走し、しかも去る。時に富める長者は、師子の座において子を見て、便識すると、心は大きく歓喜し、すぐにこの念を作す。

私の財物の庫藏には、いま付すところあり、私が常に思念した此の子を由なしに見つけた、しかも忽に自ら来て、私の願いにはなはだ適し。私は年が朽ちたといえどもなおのゆえ貪惜する。

すぐに旁人を遣い急追し、将に還えそうと、その時、使いの者は疾走して往捉する。窮子は驚愕し、怨にして稱え大喚する。

私は相犯せず、何の為に見て捉えるのか。

使者は、愈急に執行し、強く牽いて、将に還ろうとする。于の時、窮子は自ら無罪を念じ、しかも被囚として執らわれ、此れは、死は必定として、更に転じて惶怖し、悶絶して地に躃す。父は遥かよりこれを見て、しかも使いに語って言った。

此の人は不須であり、将に強くつれて来る勿れ。冷水をもって灑面し、醒悟を得させて、復して語は与える莫れ。

なぜならば、父はその子の志意が下劣であるのを知り、自ら豪貴を知り、ために子が難するところ、これが子と審知して、しかも方便をもって他人に、これが我が子と語らず謂わず。使者は語った。私はいまあなたを放つ。隨意に趣くところへ。窮子は歓喜して未曾有を得て、地よりしかも起ち、貧なる里へ往至し、もって衣食を求める。

その時、長者は、将に、その子を誘引したくて、しかも方便を設け、密かに二人の遣いを、憔悴した形色で威德のない者に、あなたは彼を詣で、おもむろに窮子に語り、此こに作す處あり、倍の直をあなたに与えると語り、窮子がもし将に来て使作を許すならば、もし何を作すところかと欲して言えば、便じて語るべきは、あなたを除糞に雇うとし、われら二人もまた共にあなたと作すとする。時に二人の使いはすぐに窮子を求め、既已にこれを得て、具に事を陳上した。

その時、窮子は先にその價を取り、除糞を尋与する。

その父は子を見て、愍れみ、しかもこれを怪しんだ。また他日において窻牖の中、遥かに子を見て、身が羸れて瘦せて、憔悴し、糞土の塵坌で汗穢し、不浄となり、すぐに瓔珞や細軟な厳飾した具と上服を脱ぎ、粗弊で垢膩な衣を著し、塵土坌身となり、右手に除糞の器を執持して、畏れのあるところの状で作人たちに語る。あなたらは勤作して懈息を得る勿れ。方便をもってのゆえにその子に近づくを得る。

後に復して告げて言った。咄に、男子よ、あなたは常に此こで作し、復して餘に去る勿れ。まさにあなたに價を加える。多くの須するところあれば、盆、器、米、麵、塩、醋に属するを自ら疑難する莫れ。また老弊した使い人ありで、須者として相給い、好きなように自ら安意にして、私をあなたの父のごとく、復して憂慮する勿れ。なぜならば、私は年が老い大きく、しかもあなたは少壮である。あなたは常に作す時は、欺、怠、瞋、恨、怨の言あることなく、あなたは餘の作す人のごとく此の諸悪は都(すべて)て見えず。

自ら、いま、すでに後より、生んだ子のところのごとく、即時に長者は更に字を作して名を与え、これを兒と為す。

その時、窮子は此の遇を欣ぶといえども、なお自ら賤人を作す客と謂うゆえ、そしてこの由のゆえに二十年の中において常に除糞をさせて、これが過ぎた後、心、相、体、信じて、出入りも無難に、そのところに然と止まり、なお本處にあり。

世尊。

その時、長者は疾あり、自ら将に死が久しからずと知り、窮子に語って言った。私はいま、金、銀、珍宝が多くあり、倉庫が盈溢している。その中の多少を応ずるところ取り与える。あなたは、私のかくのごとき心をことごとく、まさに此の意を体して知るように。なぜならば、いま私とあなたは、ために便じて異ならず、宜く加えて用心し、漏失のなきように。

その時、窮子はすぐに教敕を受け、衆物の金、銀、珍宝および多くの庫藏を領知し、しかも一餐たりとも希取する意はなくそのところに止まり、故に本處に在りとも、まだ下劣の心をいまだ捨てれずにいた。復して少時を経て父は子の意を知り、漸くもって通泰して大志を成就し、自ら鄙びて先心し、臨終の時に欲し、しかもその子に命じて、親族、國王、大臣、刹利、居士に并せ会し、悉くみなを集め、すぐに自ら宣言した。

諸君、まさに知るべし、此こに、これわが子、私の生んだところ、某城中において私を捨て逃走し、竛竮として辛苦五十餘年、そのもとの字は某、私の名は某甲、昔より本城にあり、憂を懷推して覓め、忽然において此の間、遇会を得た。此の実の我が子で、私は実の父である。いま私の所有する一切の財物はみなこの子にあり、先の出内するところは、この子の知るところである。

 

世尊。

大富長者はすなわちこれ如來で、われらはみな仏子と似る。如来は常にわれらを子と為すと説き。

世尊。

われらは三苦をもってのゆえ、生死の中において多くの熱悩を受け、無知で迷い、惑い、小法に樂著す。今日、世尊はわれらを思惟して諸法を戲論の糞として蠲除できるようにした。われらは中において勤めて精進を加え涅槃という一日の價に至り、すでに此れを得て、心もすでに大歓喜し、自らもって足と為し、便じて自ら仏法の中で勤めて精進したゆえと謂い、宏多のところを得たと言った。しかるに世尊は先にわれらの心を知り、弊欲に著し、小法において楽しみ、便じて見て縱に捨て、分别を為せず。あなたらはまさに如来の知見の宝藏の分あり。世尊は、方便力をもって如来智慧を説き、われらは仏より涅槃の一日の價をもって大を得たと為し、此の大乗において志求あることなしで、われらはまた、如来智慧は菩薩たちのために開示して演說するのが因で、しかも自ら此こにおいて志願あることなし。なぜならば仏はわれらの心が小法を楽しむのを知り、方便力をもってわれらに隨って説き、しかもわれらは真にこれ仏子と知らず、いまわれらの方で知った。世尊は仏慧において悋惜するところなしである。なぜならば、われらは昔から真の仏子であり、しかも但に小法を楽しみ、もしわれらが大を楽しむ心があるならば、仏は、すなわち、私のために大乗の法を説いたのである。この経の中、唯一乗を説き、しかも昔、菩薩の前において、声聞を小法を楽しむ者と毀訾した。しかるに仏は実は大乗をもって教化した。これゆえにわれらは説く、本より希求するところの心無し。いま、法王の大宝が自然にしかも至る。仏子が応じて得るところの者のごとくに、すでにこれを得たり。その時、摩訶迦葉は此の義を宣べたくて、しかも偈を説いて言った。(以下、本文は四文字の偈)

 

われらは今日、仏の音教を聞き歓喜踊躍し、未曾有を得た。仏が声聞に、まさに作仏を得ると説き、((⑤無上の宝珠を求めずして自ら得た。))

譬えば、童子のごとき幼稚で、無識で、父を捨て、逃逝し、遠き他の土に到る。諸国を周流し五十餘年。その父は、憂念して、四方を推求し、既に、これ求め疲れて一城に頓止する。舍宅を造立し、五欲を娛しみ、その家は巨富で、多くたくさんの金・銀・硨磲・碼碯・真珠・瑠璃・象・馬・牛・羊・輦輿、車乗、田業をする僮僕、人民は衆多で、出入が息利で、ずっと他国まで徧じ、商估する賈人があらずという處のないほどで、千萬億の衆が圍繞し恭敬し、常に王者と為して、群臣、豪族を愛念するところ、みな共に宗重し、諸縁をもってのゆえに往来する者の衆。かくのごとき豪富で大力勢があり、しかも年は朽邁して、子を益憂して念じ、夙夜に惟念し、死の時が、将に至り、癡かな子は、私を捨て五十餘年、庫藏の多くの物は、まさにこれいかなるごときか。

その時、窮子は衣食を索し求めて邑から邑へと至り、國から國へと至り、或いは得るところあり、或いは得るところなく、飢餓で羸瘦し体は瘡癬が生じ、漸次に経歷して、父の住む城に到く。傭賃して展転し、遂に父の舍に至る。

その時、長者は、その門の内において、大きな宝の帳を施し、師子座の處で、眷屬が圍繞し、多くの人が侍衛し、或いは計算あり、金や銀の宝物、財産の出内や券疏の注記をしている。窮子は父を見て豪貴で、尊厳で、これは国王か国王とひとしいと謂い、驚怖で、何ゆえに此こに至るかと自怪し、覆して自ら念じて言った。私がもし久しく住するならば、或いは見て逼迫し、強駆して使作される。これをすでに思惟し、馳走して、しかも去る。貧里へと借問し、欲往して傭いを作す。

長者はこの時、師子座にあり、遙かにその子を見て、默して、しかもこれを認識し、すでに使者を敕めて追捉して将来した。

窮子は驚き喚び、迷悶して地に躃る。この人は私を執らえて、 必らず、まさに見て殺そうとす、衣食も何の用か、此こに至り私をどうするのか。

長者は、子の愚癡で狭劣なのを知り、私の言を信せず、これを父とも信ぜず。すぐに方便をもって更に遣いの餘人で、眇目で矬陋な威德のない者に、あなたはこのように語るとよい。まさに相雇すると云い、多くのよごれと除糞に倍の價をあなたに与う。

窮子はこれを聞き、歓喜して、穢れと糞を除くために隨い来て、多くの房舍を淨める。

長者は、牖において、常にその子を見て、鄙事のために楽しむ子の愚劣を念じ、ここにおいて長者は、弊垢な衣を著し、除糞の器を執り、子のところへ往き至り、方便で近附き、勤作するように語り、あなたに價を既益する。并せて油、飲食を塗足し、充足させ、薦席も厚煖に、かくのごとくに苦言する。あなたはまさに勤作すべし。また軟語をもってもしくは我が子のごとく。長者は智があり、漸次に入出できるよう二十年を経て、家事を執り作し、その金、銀、真珠、玻瓈を示し、多くの物の出し入れをみな知ることのできるようにした。が、猶門の外に處し、草庵の宿に止り、自ら貧しい事を念じ、私に此の物なしとしていた。父は子の心が漸次に、すでに広大となり、財物を与えたくて、すぐに親族、国王、大臣、刹利、居士を聚め、此の大衆において説き、この我が子は私を捨て、他へ行き、五十歲を経て、子を見てより、以来すでに二十年、昔、某城において、しかも失う。この子を周行して、索し求めて、ついに此こに至る。凡じて私の有るところ、舍宅、人民、ことごとくをここに付する。恣にその所用とする。

子は、昔の貧を念じ、志意は下劣で、いま父のところにおいて大なる珍宝、并せて、およびに舍宅、一切の財物を獲て、はなはだ大いに歓喜して未曾有を得た。

仏もまた、かくのごとき私の、小を楽しむのを知り、いまだかつて、あなたらは作仏する、と説いて言わず、しかもわれらに多くの無漏を得て、声聞の弟子は小乗を成就する、と説き、仏はわれらに最上道を説き、此れを修習する者はまさに成仏を得ると敕めた。私は仏の教えを承り、大菩薩と為し、多くの因縁と種種の譬喩、若干の言辭をもって無上道を説き、仏子たちはひとしく私より法を聞き、日夜思惟し、精勤して修習する。

この時、仏たちは、すぐにその記を授け、あなたは来世においてまさに作仏を得る。一切の仏たちは祕藏の法で、但に菩薩のためにその実の事を演じ、しかも私のために、この真の要を説いたのではない。彼の窮子のごとくその父に近づくのを得て、多くの物があるのを知るといえども心に希取せず。われらは説くといえども、仏法の法蔵を自ら志願することなし。また復して、かくのごとくわれらは、内の滅で自ら足を為すと謂えり。ただ此の事を了承し、更に餘事なしで、われらがもし浄仏国土衆生を教化したと聞いても、すべて欣楽なしである。なぜならば一切の多くの法はみなことごとく空寂で、無生で無滅、無大で無小、無漏で無為と、かくのごとく思惟して喜楽を生ぜず。われらは長夜に、仏の智慧において無貪無著で、復して志願もせず、しかも自ら法においてこれ究竟と謂えり。われらは長夜に空の法を修習し、三界の苦悩の患いを得脱し、最後身に住して涅槃を餘りありとし、仏の教化するところの道でむなしからずを得て、すなわち得たと為した。仏の恩を報じ、われらは仏子たちのためにひとしく菩薩の法を説いたといえども、もって仏道を求め、しかもこの法において永らく願楽なく、導師は見捨て、私の心を観じたゆえに初めは勸進せず、実利あると説き、富む長者のごとく、子の志が劣るのを知り、方便をもって、その心を柔伏し、しかるのちに、やっと一切の財物を付した。仏もまた、かくのごとく、希有の事を現じて、小を楽しむ者を知り、方便の力をもってその心を調伏し、そして大智を教えた。われらは今日、未曾有を得たのは先の望むところに非ず。しかもいま自ら得た。彼の窮子のごとく無量の宝を得た。

世尊、私はいま道を得て、果を得て、無漏の法において清浄な眼を得た。われら長夜に仏の浄戒をたもち始めて、今日において、その果報を得た。法王の法の中、久しく梵行を修して、いま無漏の無上の大果を得た。われら今者、真の声聞は、仏道の声をもって一切に聞かしむる。われら今者、真の阿羅漢として、多くの世間において、天、人、魔、梵、あまねくその中において、供養を応受する。((⑥世尊の大恩))は希有の事をもって憐愍し、教化してわれらを無量億劫利益した。誰がよく報いる者となるか。手足を供給し、頭頂で礼をして敬い、一切を供養しても報ずるにあたわず。もし頂きに戴るをもって、両肩に荷負し、恒沙劫において恭敬して心を尽くし、また美膳をもって無量の宝衣および多くの卧具、種種の湯藥、牛頭、栴檀および多くの珍宝、塔廟を起てるをもって、寶、衣、布、地、ことごとくにひとしき事を用いて、もって供養を恒沙劫に於いてしてもまた報いることあたわず。仏たちは希有で無量無辺で不可思議で、大神通力は無漏で、無為で、諸法の王であり、よく下劣のためにこの事に忍び、凡夫に取相して隨い、宜くために説く。仏たちは、法において最も自在に得ており、衆生たちを知り、種種の欲楽、およびその志力を隨所で堪任し、無量の喻をもって、しかも衆生たちのために、宿世の善根に隨い、法を説く。また成熟、未成熟を知り、種種の寿量を分别してすでに知り、一乗道において、隨宜に三を説く。

(以上、本文四文字の偈)

 

 

 

 

 

妙法蓮華経*2第五

*3

 

その時、世尊は摩訶迦葉および大弟子たちに告げた。

善き哉、善き哉、迦葉は、如来の真実の功徳を善く説いた。誠に言うところのごとし。如来は、復して無量無辺阿僧祇の功徳があり、あなたらが、もし無量億劫において説いても、よく尽きず。

迦葉よ。

まさに知るべし。如来は、この諸法の王である。もし説くところあれば、みな不虛なり。一切の法において、智の方便をもって、しかもこれを演説する。その説法するところは、みなことごとく一切智の地において到る。如来は、一切の諸法の、趣きの帰するところを観て知り、また一切の衆生の到達無礙に、行くところの深い心を知る。又、諸法において、明了に究め尽くし、衆生たちに、一切の智慧を示す。

迦葉よ

譬えば、三千大千世界の山、川、谿谷、土地に生ずるところの卉木、叢林および多くの薬草、種類は若干、名と色と、各、異り、密雲が弥布し、三千大千世界を徧覆して、一時にひとしく澍(うるお)い、その沢の卉木、叢林および多くの薬草に普洽し、小根、小茎、小枝、小葉、中根、中茎、中枝、中葉、大根、大茎、大枝、大葉、と、多く、樹は、大小に隨って上中下、各、受けるところあり。一つの雲の雨するところ、その種性を稱え、しかも成長し、華果が敷実する。((③一つの地に生ずるといえども、一つ雨の潤うところ、しかも多くの草木に各、差别あり))。

迦葉よ。

まさに知るべし。如来もまた復してかくのごとし。世において出現し、大雲のごとく起き、大音声をもって世界の天、人、阿修羅に普徧し、彼の大雲のごとく三千大千の国土に徧覆して、大衆中において、しかも唱えて、かく言った。

私は、1)如来 2)応供 3)正徧知 4)明行足 5)善逝世間解 6)無上士 7)調御丈夫 8)天人師 9)仏 10)世尊である。未度の者は、度せるよう、未解の者は、解せるよう、未安の者は、安んずるよう、未涅槃の者は、涅槃を得られるようする。今世、後世を、実のごとくこれを知る。私は一切を知る者、一切を見る者、道を知る者、道を開く者、道を説く者である。あなたら天、人、阿修羅の衆は、みな応じてここに到れ、法を聴くためのゆえである。

その時、無数千万億の衆生は、仏のところに来至して、しかも法を聴く。如来は、于の時、この衆生の諸根が、利か鈍かを観じ、精進するか懈怠か、その堪えるところに隨い、しかもために法を説く。種種に、無量に、みな歓喜して善の利を快く得られるようにする。この衆生たちは、この法をすでに聞き、現世は安穏で、後には善處に生まれる。法をすでに既聞して、多くの障礙を離れ、諸法の中において、力に任せ、漸くして道に入るのを得るところである。彼の大雲のごとく、一切の卉木、叢林および薬草に雨して、その種の性が具足し、蒙潤し、各、成長を得る。如来の説く法は、一相一味、いわゆる解脱相、離相、滅相で、究竟は一切種智に至る。そこに衆生があり、如来の法を聞き、もし持、読、誦と説のごとく修業すれば、得るところの功徳は、自ら覚え知らずである。なぜならば唯、如来ありて、この衆生の種、相、体、性を知り、何事を念じ、何事を思い、何事を修し、何(いか)に念ずると云うか、何に思うと云うか、何に修めると云うか、何なる法をもって念じ、何なる法をもって何なる法を得るか。衆生が種種の地において住むのを、唯、如来があって、実のごとく明了無礙にこれを見る。彼の卉木、叢林、諸藥草とひとしきがごとく、しかも自ら上、中、下の性を知らず、如来が一相、一味の法を知る。いわゆる解脱相、離相、滅相、究竟涅槃常寂滅相で、終わりに空において帰する。これをすでに知り、衆生のこころの欲を観じ、しかもこれを将に護り、これゆえに、すぐに、ために、一切の種智を説かず。

あなたら迦葉よ。

はなはだために、希有である。よく如来の隨宜の説法を知る。よく信じ、よく受ける。なぜならば、仏たち世尊の隨宜の説法は難解で難知である。

その時、世尊は、重ねて此の義を宣べたくて、しかも偈を説いて言った。(以下、本文は四文字の偈)

 

((④法王、有を破り、世間に出現し))、衆生の欲に隨い、種種に法を説く。如来は、重く尊し、智慧は深遠で、久しく黙して、その要を務めて速く説かず。智があり、もし聞けばすなわち信解する。智なく疑い悔いれば、すなわち永失と為す。

これゆえに迦葉よ、力に隨い、ために説き、種種の縁をもって正見を得られるように。

迦葉よ。

まさに知るべし。

譬えば大雲のごとし。世間において起き、一切を徧覆し、恵雲は潤いを含み、電光は晃曜し、電声は遠く震き、衆を悅豫させる。日光は揜蔽して、地上は清涼となり、靉靆(あいたい)し垂布する。何なるごとくに承攬(しょうらん)するか、その雨あまねくひとしく四方に俱下し、無量に流澍し、率土に充洽し、山、川、谿谷(けいこく)に幽邃(ゆうつい)して生ずるところの卉木、藥草、大小の諸樹、百穀、苗稼、甘蔗、蒲桃、雨の潤すところ、豊足せずはなし。乾いた地は普洽し、薬木は並び茂り、その雲の出るところ、一味の水は、草木、叢林に、分に隨い、潤いを受け、一切の諸樹、 上、中、下、ひとしくその大小を稱(とな)え、各、生長を得て、根、茎、枝、葉、華、果、色が光り、一雨のおよぶところみな鮮沢を得る。そのごとき体、相、性、分の大小の潤うところはこれ一、しかも各、滋茂する。

仏もまたかくのごとく、世において出現し、譬えば、大雲のごとく一切をあまねく覆し、すでに于の世に出て、衆生たちのために、諸法の実を分别して演説する。大聖、世尊は、諸天、人、一切の衆の中において、しかもこれを宣べて言った。私は、如来と為し、両足の尊として于(ここ)の世間に出て、なお大雲のごとく一切を充潤し、枯槁の衆生を、みな苦を離れて安穏の楽、世間の楽、および涅槃の楽を得られるようにする。諸天、人衆よ、一心に善く聽け。みな応じてここに到り、無上尊に覲(まみえ)るべし。私は、世尊と為し、よくおよぶ者無し。衆生を安穏にするゆえに、世において現れ、大衆のために甘露の淨い法を説く。その法の味は一であり、解脱、涅槃、一妙音をもって、その義を演暢する。常に大乗のために、しかも因縁を作す。((⑤私は一切を観じ、あまねくみな平等に、此、彼(かしこ)や愛、憎の心あることなし。私は、貪著なく、また限礙なし))。恒に、一切のために、平等に法を説く。一人のためのごとく、衆多もまたしかり、常に説法を演じ、他事は、曽てなく、来ては去り、立っては坐り、終りまで疲れず、厭わず、雨があまねく潤うごとくに、世間を充足する。貴賤、上下、持戒、毀戒、威儀の具足および不具足、正見、邪見、利根、鈍根に法の雨をひとしく雨らせる。しかも懈倦なく、一切の衆生は、私を法者と聞き、力に隨い、受けるところ人、天の處、轉輪聖王、釋、梵と諸王の諸地に住む。これは小薬草である。

無漏の法を知り、よく涅槃を得て、六神通を起こし、および三明を得て、獨り山林に處し、常に禅定を行じ、縁覚の証を得る。これは中薬草である。

世尊の處を求め、私は当に作仏すると、精進を定め、行う。これは上薬草である。

又、仏子たちは、仏道に專心し、常に慈悲を行じ、自ら作仏を知り、決定して疑いなし。この名が小樹である。

神通に安住し、不退輪を転じ、無量億百千の衆生を度す。かくのごとき菩薩の名を大樹と為す。

仏は平等に説く。一味の雨のごとく、衆生の性に隨い、受けるところは不同で、彼の草木のごとく、稟(う)けるところは各、異り、仏は此の喩えをもって、方便を開き示し、種種の言辞で一つの法を演じて説き、仏の智慧において、海の一滴のごとく、私は、法の雨を雨らせて、世間を一味の法で充満する。力に隨い、修行し、彼の叢林のごとく、薬草と諸樹、その大小に隨い漸増し、好く茂る。仏たちの法は常に一味で、多くの世間があまねく具足できるのを得て、漸次に修行してみな道果を得る。声聞、縁覚は山林において處し、最も後身に住し、法を聞き果を得る。この名が薬草である。

各、増長を得る。もしくは菩薩たちで智慧が堅固で、三界を了達し最も上の乗を求める。この名が小樹であり、しかも増長を得る。

復して禅に住するあり、神通力を得て、諸法の空を聞き、心が大歓喜して、無数の光を放ち、衆生たちを度する。この名が大樹であり、しかも増長を得る。

かくのごときに迦葉よ、仏の説法するところ、譬えば大雲のごとく一味の雨をもって人華において潤し、各、成実を得る。

迦葉よ。

まさに知るべし。多くの因縁と種種の譬喻をもって仏道を開き示す。これが私の方便で、仏たちもまたしかり、いまあなたらのために最も実の事を説く。声聞衆たちは、みな滅度に非ず。あなたらの行じるところ、これ菩薩道で、漸漸に修業して、ことごとくまさに仏と成る。(以上、本文は四文字の偈)

 

 

 

 

妙法蓮華経((①授記))第六

 

  その時、世尊は、この偈をすでに説いて大衆たちに告げ、唱えてかくのごとく言った。私のこの弟子、摩珂((②迦葉は、未来世において、まさに三百万億の仏、世尊たちに覲(まみ)えたてまつるを得て、供養し、恭敬し、尊重し、讚歎し、仏たちの無量の大法を広く宣べ、最後身において、ために仏と成るを得る。名は光明)) 1)如来 2)応供 3)正偏知 4)明行足 5)善逝世間解 6)無上士 7)調御丈夫 8)天人師 9)仏 10)世尊 と曰う。国名は光徳。劫名は大荘厳。仏の寿は十二小劫である。正法は世に住して二十小劫、像法は、また住して二十小劫である。国の界は厳飾され、多くの穢悪、瓦礫、荊棘や便利の不浄はなく、その土は平正で、高、下、坑、坎、堆、阜はあることなし。瑠璃を地と為し、宝樹が列を行じ、黄金の縄をもって界道の側と為し、多くの宝華を散らせ、周徧は清浄である。その国の菩薩は無量千億、声聞衆たちもまた復して無数で、魔事あることなし、魔および魔民ありといえども、みな仏法を護る。その時、世尊は、重ねてこの義を宣べたくて、しかも偈を説いて言った。

(以下本文は四文字の偈)

 

  比丘たちに告げる。私が仏眼をもって、この迦葉を見ると、未来世において、無数劫を過ぎて、まさに作仏を得る。しかも来世において三百万億の仏、世尊たちに覲(まみ)えたてまつり、供養し、仏の智慧のために梵行を浄修して、最上の二足尊をすでに供養し、一切の無上の慧を修習し、最後身において、ために仏と成すを得る。その土は清浄で、瑠璃を地と為し、多くの諸宝樹が道の側を行列し、金の縄で道を界し、見る者を歓喜させ、常に好い香りを出し、衆の名華が散り、種種にもって奇妙に、ために荘厳され、その地は平正で丘や坑はあることなし。菩薩衆たちは稱計できず、その心は調柔で大神通力に逮し、仏たちの大乗経典を奉持する。声聞衆たちは無漏の後身、法王の弟子で、また計るべからず、天眼をもってしても、数して知るあたわず。その仏のまさに寿は十二小劫、正法は世に住して二十小劫、像法もまた住して二十小劫で、光明世尊、その事かくのごとしである。

(以上本文は四文字の偈)

 

その時、大目健連、須菩提、摩珂迦旋延ひとしくみなことごとく悚慄(しょうりつ)して一心に合掌して尊顔を瞻仰し、目を暫くも捨てず、すぐに共同して声し、しかも偈を説いて言った。

(以下本文は五文字の偈)

 

大雄猛である世尊、緒釈の法王で、われらを哀愍するゆえに、しかも仏の音声を賜わり、もし私の心を深く知り、見てために授記する者ならば、もって甘露のごとくに灑い、清涼を得て除熱し、飢国より来たりて、忽ちに大王の膳に遇うごとく、心なお疑いと懼れを懐き、敢えてすぐには未便食である。もし復して王の教えを得るならば、しかる後にやっと敢えて食する。われらもまた、かくのごとく毎(いつ)も小乗の過を惟(おも)い、まさに何を云うか知らず、仏の無上の慧を得て、われらが作仏すると言う仏の音声を聞いたといえども、心はなお憂い懼れを懷き、敢えて未便食のごとし。もし仏の授記を蒙るならば、それでやっと快く安樂する。大雄猛である世尊は常に安世間を欲す。願わくばわれらに記を賜る。飢えに食を須く教えるごとく。

(以上本文は五文字の偈)

 

その時、世尊は大弟子たちの心に念ずるところを知り、比丘たちに告げた。この須菩提はまさに来世において、三百万億那由他の仏に覲(まみ)えたてまつり、供養、恭敬、尊重、讚歎して、常に梵行を修し、菩薩道を具し、最後身において、ために仏と成るを得る。号は名相 1)如来 2)応供 3)正偏知 4)明行足 5)善逝世間解 6)無上士 7)調御丈夫 8)天人師 9)仏 10)世尊 と曰う。劫名は有宝。国名は宝生。その土は平正で玻瓈を地と為し、宝樹で荘厳され、多くの丘や坑、沙、礫、荊、棘、便利の穢れはなく、宝華が地を覆して、周徧は清浄である。その土の人民はみな宝台の珍妙楼閣に處し、声聞の弟子が無量無辺で算数や譬喩で知るところあたわず。菩薩衆たちは無数、千万億那由他。 仏の寿は十二小劫。正法は世に住し二十小劫、像法はまた住して二十小劫。その仏は常に虚空に處し、衆のために法を説き、無量の菩薩および声聞衆を度脱する。その時、世尊は重ねてこの義を宣べたくて、しかも偈を説いて言った。

(以下本文は四文字の偈)

 

比丘衆たちよ、いまあなたたちに告げる。みなまさに一心に私の説くところを聴け。私の大弟子である須菩提この者はまさに作仏を得る。号は名相と曰う。まさに万億の仏たちを供養して、仏の行くところに隨い、大道を漸具して最後身を得る。三十二相、端正で殊妙、なお宝山のごとし。その仏の国土は厳浄第一で、衆生で見る者は愛楽せずは無しである。仏はその中において無量の衆を度す。その仏法中、菩薩たちは多く、みなことごとく利根で、不退の輪を転じ、彼の国は常に菩薩をもって荘厳され、声聞衆たちは稱数できず、みな三明を得て、六神通を具し、八解脱に住し、大威徳がある。その仏の説く法は無量の神通の変化と不可思議において現れる。諸天、人民の数は恒沙のごとく、みな共に合掌して仏の語を聴受する。その仏の寿はまさに十二小劫、正法は世に住して二十小劫、像法はまた住して二十小劫である。

(以上本文は四文字の偈)

 

その時、世尊は復して比丘衆たちに告げた。私はいまあなたを語る。この大迦旋延、まさに来世において多くの供具をもって八千億の仏に供養の事をたてまつり、恭敬、尊重し、仏たちの滅後に各、塔廟を起て、高さ千由旬、縦、広さ、正ひとしく五百由旬。もって、金、銀、瑠璃、硨磲、瑪瑙、真珠、玫瑰の七宝で合成し、衆華の瓔珞、塗る香、末香、焼香、繒蓋、、幢旛と塔廟を供養した。これをすでに過ぎた後、まさに復して二万億の仏を供養し、また復してかくのごとし。この仏たちをすでに供養して、菩薩道を具して、まさに作仏を得る。号は閻浮那提金光1)如来 2)応供 3)正偏知 4)明行足 5)善逝世間解 6)無上士 7)調御丈夫 8)天人師 9)仏 10)世尊 と曰う。その土は平正で、玻瓈を地と為し、宝樹で荘厳され、黄金を縄と為し、もって道の側を界し、妙華を地に覆し、周徧を清浄にして、見る者は歓喜し、四悪道の地獄、餓鬼、畜生、修羅道は無く、天、人、声聞衆たち及び菩薩たちが多く有り、無量万億とその国を荘厳する。仏の寿は十二小劫で、正法は世に住して二十小劫、像法もまた住して二十小劫である。その時世尊は重ねて此の義を宣べたくて、しかも偈を説いて言った。

(以下本文は四文字の偈)

 

比丘衆たちよ、みな一心に聴け。私の説くところのごとく、真実と異ならず。この迦旋延はまさに妙好の供具をもって仏たちを供養して、仏たちの滅後に七宝の塔を起て、また華香をもって舎利を供養して、その最後身にて、仏の知恵を得て、正覚とひとしきを成す。国土は清浄で、無量万億の衆生を度脱し、みなために十方のところより供養する。仏の光明によく勝つ者なし。その仏の号は閻浮金光と曰う。菩薩、声聞は一切の有を断ち、無量無数にその国を荘厳する。

(以上本文は四文字の偈)

 

その時、世尊は復して大衆に告げた。私はいまあなたに語る。この大目犍連はまさに種種の供具をもって、八千の仏たちを供養して、恭敬、尊重し、仏たちの滅後に、各、塔廟を起て、高さ千由旬、縦、広さ、正、ひとしく五百由旬。もって金、銀、瑠璃、硨磲、瑪瑙、真珠、玫瑰の七宝で合成し、衆華の瓔珞、塗る香、末香、焼香、繒蓋、幢旛をもって用いて供養し、

これをすでに過ぎた後、まさに復して二百万億の仏たちに供養し、また復してかくのごとし。まさに成仏を得る。号は多摩羅跋栴檀香1)如来 2)応供 3)正偏知 4)明行足 5) 善逝世間解 6)無上士 7)調御丈夫 8)天人師 9)仏 10)世尊 と曰う。劫名は喜満。国名は意楽、その土は平正で、玻瓈を地と為し、宝樹で荘厳され、真珠の華が散らされ、周徧は清浄で、見る者は歓喜する。天、人、菩薩、声聞たちが多く、その数は無量である。仏の寿は二十四小劫。正法は世に住して四十小劫で、像法もまた住して四十小劫である。その時、世尊は重ねてこの義を宣べたくて、しかも偈を説いて言った。

(以下本文は四文字の偈)

 

私の此の弟子、大目犍連は((③この身をすでに捨て))、八千二百万億の仏、世尊たちと見ることを得て、仏道のためゆえに供養し、恭敬し、仏たちのところにおいて、常に梵行を修し、無量劫において仏法を奉持して、仏たちの滅後に七宝の塔を起て、長表に金刹し、華、香、伎楽をしかももって仏たちの塔廟に供養し、漸漸に菩薩道をすでに具足し、意楽国においてしかも作仏を得る。号は多摩羅栴檀之香である。その仏の寿命は二十四劫。常に天、人のために仏道を演説し、声聞が無量に恒河沙のごとくで、三明、六通の大威徳があり。菩薩は無数で、志が固く、精進し、仏の智慧において、みな不退転である。仏の滅度の後、正法はまさに住して四十小劫。像法もまた爾である。私の弟子たちで威徳を具足し、その数五百、みなまさに授記して、来世において、咸(ことごと)く成仏を得る。私およびあなたは((④宿世の因縁である。吾(わたし)はいま、まさに説く))。あなたらは善く聴け。

 

 

 

 

妙法蓮華経((①化城))喩品第七

仏は、比丘たちに告げた。

ずっと往くこと過去無量無辺不可思議劫、その時、仏があり、名は大通知勝 (1)如来 (2) 応供 (3)正偏知 (4)明行足 (5)善逝世間解 (6)無上士 (7)調御丈夫 (8) 天人師 (9)仏 (10)世尊 である。その国の名は好城。劫名は大相。

比丘たちよ。

彼の、仏の滅度して已来、はなはだ大いに久遠で、譬えのごとく三千大世界もあるところの地種を、たとい、ある人が磨っして、もってために墨にして、東方へ千の国土を過ぎるにおいて、やっと一點を下し、微塵のごとくの大きさで、また千の国土を過ぎて、復して一點を下す。かくのごとく展転して、地種の墨を尽くす。あなたらにおいて、意に何を云わんや。この多くの国土を、もし算師、もしくは算師の弟子で、よく辺際を得て、その数を知るか知らずか。

不なり、世尊。

比丘たちよ。

この人が、経るところの国土を、もし點ずるも、點ぜずも、抹っしてために塵と尽くして、一塵を一劫として、彼の、仏の滅度して已来、復してこの数を過ぎて、無量無辺百千万億阿僧祇劫である。私が如来の知見力をもってのゆえ、彼の久遠を観て、なお今日の若(ごと)し。

その時、世尊は重ねて此の義を宣べたくて、しかも偈を説いて言った。(以下、本文は五文字の偈)。

 

私が過去世を念じて、無量無辺劫に、両足尊の仏があり、名は大通知勝。人が力をもって磨っするごとく三千大千土の、此の多くの地種をみなことごとくもって墨と為し尽くし、千の国土を過ぎるにおいて、やっと一塵點を下し、かくのごとく展転して點じ、此の多くの塵墨を尽くし、かくのごとき多くの国土で、點じたのと、點ぜずも、復して抹っして塵と為して尽くし、一塵を一劫と為し、此の多くの微塵の数、その劫を復して過ぎて、ここに彼の仏が滅度して来りて、かくのごとくの無量劫を、如来の無礙の智は、彼の、仏の滅度および声聞と菩薩を知ること、いまの滅度を見るがごとしである。

比丘たちよ、まさに知るべし。

仏の智は浄微妙で、無漏で無所礙で無量劫を通達する。(以上本文は五文字の偈)

 

仏は比丘たちに告げた。

((②大通智勝仏))は寿が五百四十万億那由他劫である。その仏は、もと道場に坐り、魔軍をすでに破り、阿耨多羅三藐三菩提を垂得する。しかも仏たちの法は在前して現れず。かくのごとく一小劫ないし十小劫を、結跏して趺坐し、身心を不動にし、しかも仏たちの法は、なお在前せず。その時、忉利天たちは、先に、彼の仏のために菩提樹の下において、高さ一由旬の師子座を敷き、仏は、此こにおいて坐り、まさに阿耨多羅三藐三菩提を得た。此の座に適坐して、時に、梵天王たちは、衆の天華を百由旬の面に雨らせ、香風が時に来たりては、華は萎えて吹き去り、更に新者の雨となり、かくのごとく絶えず。満十小劫、仏において供養して、やっと滅度に至るまで、常に此の華が雨り、四天王たちは、仏を供養するために、常に天の鼓を撃ち、その餘の諸天は、天の伎楽を作し、満十小劫、于に滅度に至り、また、復してかくのごとし。

比丘たちよ。

大通智勝仏は、十小劫が過ぎて、仏たちの法が、やっと在前し、現れて、阿耨多羅三藐三菩提を成す。

その仏の、未出家の時に、十六の子があり、その第一の者で、名を智積と曰う。子たちは各、種種の珍異な玩好の具があり、父の阿耨多羅三藐三菩提を成すを得たのを聞くと、みな珍しいところを捨て、仏のところへ往き詣でた。((③母たちは涕泣し))、しかも隨ってこれを送る。((④その祖の転輪聖王))と一百の大臣および餘の百千万億の人民は、みな共に圍繞して、咸(ことごと)く大通智勝如来に親近したくて、隨い道場に至り、供養し、恭敬、尊重、讚歎し、すでに頭面を足もとへと、礼をした。すでに仏を繞(かこ)み畢(お)えて、一心に合掌し、世尊を瞻仰して、偈をもって頌(じゅ)して言った。(以下本文は五文字の偈)

 

大威徳の世尊は、衆生を度すためのゆえに、無量億歳において、ようやく成仏を得ると、諸願すでに具足し、善き哉、吉無上である。世尊は、はなはだ希有で、一坐して十小劫、身体および手足を、寂燃と安んじて不動にして、その心は常に澹泊(たんぱく)で、散乱は未曾有で、永い寂滅を究竟し、無漏の法に安住し、今者、世尊を見て、安穏に仏道を成し、われらは、善利を得て、大歓喜で稱慶する。衆生は、常に苦悩し、盲瞑で導師なく、苦尽の道を識せず、解脱を求めるを知らず、長夜に悪趣を増やし、天の衆たちを減損し、冥きより冥きにおいて入り、永く仏の名を聞かず。いま、仏は、最上の安穏な無漏の道を得て、われらおよび天、人は、ために最大の利を得て、これゆえに咸(ことごと)く、けい稽首(けいしゅ)して、無上尊に帰命する。(以上、本文は五文字の偈)

 

その時((⑤十六王子))は、すでに仏を偈で讃えて、世尊に、法輪において転ずるよう勧請し、咸くこの言を作す。

世尊の説く法は、安穏なところ多く、諸天、人民を憐愍し、饒益する。重ねて偈を説いて言った。(以下、本文は五文字の偈)

 

世雄に倫は無にひとしい。百福を自ら荘厳し、無上の智慧を得て、願いて、ために世間に説き、われら、および衆生たちの類いにおいて、度脱させ、分別して顕示するために、この智慧を得させた。もしわれらが仏を得るならば。衆生もまた、復して然り。世尊は、衆生の念ずるところの深き心を知り、また行道するところを知り、又、智慧力を知り、欲楽および修福や行業するところの宿命を、世尊は、ことごとくすでに知り、まさに無上の輪を転ずる。(以上、本文は五文字の偈)

 

仏は比丘たちに告げた。

大通智勝仏が阿耨多羅三藐三菩提を得た時に、十方の各、五百万億の仏たちの世界は、六種に震動し、その国の中間の幽冥の處で、日月の威光の照らすことあたわずのところが、しかもみな大明となり、その中の衆生は各、相い見ることを得て、咸くこの言を作す。此の中で衆生が忽ちに生じたのを何と云わんや。その国の界で、諸天の宮殿ないしは、梵宮が六種に震動して、大光が世界に遍満して普く照らし、諸天の光に勝った。その時、東方五百万億の多くの国土中の梵天の宮殿に、光明が常の明るさにおいて倍に照曜し、梵天王たちは各、この念を作した。今者、宮殿の光明は昔より未有のところで、もって何に因縁して、しかも此の相を現したのか。この時、梵天王たちで、すぐに各、相い詣でて、此の事を共議した。時に、彼の衆の中に、一大梵天王があり、名は、救一切である。梵衆たちのために、しかも偈を説いて言った。(以下、本文は五文字の偈)

 

われら、多くの宮殿の光明は、昔、未有で、此れは何なる因縁か、宜しく各、共にこれを求め、大徳の天生のため、仏の出世間のため、しかも此の大光明が十方において徧照する。(以上、本文は五文字の偈)

 

その時、五百万億の国土の梵天王たちと宮殿は、俱に、各、衣裓をもって、諸天の華を盛り、共に西方を推し尋ねて、この相を詣で、大通智勝如来を見ると、于の道場の處の菩提樹の下で師子座に坐り、諸天、龍王乾闥婆緊那羅、摩睺羅伽、人、非人ひとしく恭敬し、圍繞し、および十六王子が、仏に法輪を転ずるように請うのを見た。即時に、梵天王たちは、頭面で仏に礼をして、百千帀繞み、すぐに天の華をもって、しかも仏の上に散らせた。その散華したところは須彌山のごとく、あわせてもって仏の菩提樹に供養した。その菩提樹は、高さ十由旬、華をすでに供養して、各、もって宮殿を彼の仏に奉上し、しかもこの言を作した。われらを惟い見て、哀愍し、饒益するよう、獻じた宮殿を垂れて納處を願う。時に梵天王たちは、すぐに仏の前において、一心に同声をもって、偈を頌して曰く。(以下本文は五文字の偈)

 

世尊は、はなはだ希有で、値遇を得べくは難しく、無量の功徳を具し、一切をよく救護し、天、人の大師で、世間において十方の衆生たちを哀愍し、あまねく、みな饒益を蒙り、われらは、五百万億の国のところより来たりて、深い禅定の楽を捨て、仏を供養するためのゆえに、われらは、先の世の福として、宮殿をはなはだ嚴飾し、いま、もって世尊にたてまつる。哀れみ納受を惟願する。(以上、本文は五文字の偈)

 

その時、梵天王たちは、すでに、仏を偈で讃え、各、この言を作す。世尊に、法輪において転じ、衆生を度脱し、涅槃道を開くよう惟願する。時に、梵天王たちは、一心に同声で、しかも偈を説いて言った。(以下、本文は五文字の偈)

 

世雄の両足尊、大慈悲力をもって、苦悩の衆生を度し、説法を演じるを惟願する。(以上、本文は五文字の偈)

 

その時、大通智勝如来は、黙然とこれを許す。 

又、比丘たちよ。

東南方、五百万億の国土の大梵天王たちは、各自、宮殿の光明が、昔より照曜すること未有のところを見て、歓喜踊躍して、希有の心を生じ、すぐに各、相い詣で、此の事を共議した。時に、彼の衆の中に、ある一大梵天王で、名を大悲と曰い、梵衆たちのために、しかも偈を説いて言った。(以下、本文は五文字の偈)

 

この事は、何なる因縁か。しかも、此のごとくの相が現れ、われら、多くの宮殿の光明は、昔より未有で、大徳の天生のためか、仏の出世間のためか、此の相を見るのは未曾で、まさに、一心に、過ぎた千万億土を求め、光を尋ね、共にこれを推す。多くは、これ仏が出世して、苦の衆生を度脱する。(以上、本文は五文字の偈)

 

その時、五百万億の梵天王たちは、宮殿と俱に、もって衣裓に、諸天の華を盛り、共に西北の方を詣で、この相を推し、尋ねて、大通智勝如来を見ると、于の道場の處の菩提樹の下で、師子座に坐り、諸天、龍王乾闥婆緊那羅、摩睺羅伽、人、非人がひとしく恭敬し、圍繞し、および十六王子たちが、仏に、法輪を転ずるよう請うのを見た。時に、梵天王たちは、頭面で、仏に、礼をして、百千帀、繞み、すぐに天の華をもって、しかも、仏の上に散らせた。その散らせたところの華は、須彌山のごとくで、あわせて、もって仏の菩提樹に供養した。すでに、華を供養して、各、宮殿をもって彼の仏に奉上し、しかもこの言を作した。われらを惟(おも)い見て、哀愍し、饒益するよう、獻じた宮殿を、垂れて納受を願う。その時、梵天王たちは、すぐに、仏の前において、一心に同声で偈をもって頌して曰く。(以下、本文は五文字の偈)

 

聖主、天中の王、迦陵頻伽の声、衆生者を哀愍する。われらは、いま、敬礼する。世尊は、はなはだ希有であり、久遠にやっと一現する。一百八十劫、空に過ぎ、仏あることなし。三悪道が充満し、諸天の衆は減少する。いま仏が、世において出て、衆生のための眼を作し、世間の帰趣するところ、一切において救護する。衆生の父と為して、哀愍する饒益者である。われらは、いま世尊に、値うを得て、宿福を慶(よろ)こぶ。(以上、本文は五文字の偈)

 

その時、梵天王たちは、偈を、仏に、すでに讃え、各、この言を作す。

世尊に、一切を哀愍して、法輪において転じ、衆生を度脱するよう惟願する。

時に、梵天王たちは、一心に同声で、しかも偈を説いて曰く。(以下、本文は五文字の偈)

 

大聖が法輪を転じ、諸法の相を顕示し、苦悩の衆生を度し、大歓喜が得られる。衆生は、この法を聞き、得道もしくは天に生まれ、多くの悪道は減少し、忍ぶ善者が増益する。(以上、本文は五文字の偈)

 

その時、大通智勝如来は黙然とこれを許す。

又、比丘たちよ。

南方、五百万億の国土の大梵王たちは、各自が宮殿を見て、光明で照曜するのは、昔より

未有のところで、歓喜踊躍して、希有の心を生じ、すぐに各、相い詣で、此の事を共議した。何なる因縁をもって、われらの宮殿に、此の光曜があるのか。時に、彼の衆の中に、一大梵天王があり、名を妙法と曰い、梵衆のために、しかも偈を説いて言った。(以下、本文は五文字の偈)

 

われらの多くの宮殿が、光明で、はなはだ威曜となり、此れは因縁なきにあらず。この相を宜しく求めて、百千劫を過ぎるにおいて、この相を見ること未曾である。大徳の天生のため、仏の出世間のためである。(以上、本文は五文字の偈)

 

その時、五百万億の梵天王たちは、宮殿と俱に、各、もって衣裓に、諸天の華を盛り、共に北の方を詣で、この相を推し尋ねて、大通智勝如来を見ると、于の道場の處、菩提樹の下で師子座に坐り、諸天、龍王乾闥婆緊那羅、摩睺羅伽、人、非人が、ひとしく恭敬し、圍繞し、および十六王子が、仏に、法輪を転ずるを、請うのを見た。時に、梵天王たちは、頭面で、仏に、礼をして、百千帀繞み、すぐに天の華で、もって仏の上に散らせ、その散らせた華は、須彌山のごとくで、あわせて、もって仏の菩提樹に供養した。すでに、華を供養して、各、宮殿をもって、彼の仏に奉上し、しかもこの言を作した。われらを惟(おも)い見て哀愍し、饒益するよう、獻じたところの宮殿を、垂れて納處を願う。その時、梵天王たちは、すぐに仏の前において、一心に同声で、偈をもって頌して曰く。(以下、本文は五文字の偈)

 

世尊に、見するは、はなはだ難しい。多くの煩悩者を破し、百三十劫を過ぎて、いま、やっと一見を得る。多くの飢渇した衆生に、法の雨をもって充満する。昔より覩るところ未曾で、無量の智慧者で、優曇鉢華のごとく、今日やっと値遇する。われらの多くの宮殿は、光を蒙るゆえに厳飾した。世尊の大慈愍で、垂れて納處を惟願する。(以上、本文は五文字の偈)

 

その時、梵天王たちは、すでに、偈で仏を讚え、各、この言を作す。世尊に、一切世間の諸天、魔、梵、沙門、婆羅門が、みな安穏を獲て、しかも度脱を得られるよう、法輪において転じるのを惟願する。時に、梵天王たちは一心に、同声で偈をもって頌して曰く。(以下、本文は五文字の偈)

 

天人尊に惟願する。無上の法輪を転じ、于に大法の鼓を撃ち、しかも大法螺を吹き、あまねく大法の雨を雨らせ、無量の衆生を度し、われらは、咸(ことごと)く帰請する。まさに深遠の音を演ぜよ。(以上、本文は五文字の偈)

 

その時、大通智勝如来は、黙然とこれを許す。西南方ないし下方もまた、復して各のごとき。その時、五百万億の国土の大梵たちは、みな、ことごとく自ら止まるところを覩て、宮殿の光明の威曜が、昔より未有のところで、歓喜して踊躍し、希有の心を生じ、すぐに各、相い詣で、此の事を共議した。何なる因縁をもって、われらの宮殿に、その光明があるのか。時に、彼の衆の中で、一大梵天王があり、名を尸棄と曰い、梵衆たちのために、しかも偈を説いて言った。(以下、本文は五文字の偈)

 

いま何なる因縁をもって、われらの多くの宮殿が威徳の光明で曜(かがや)き、未曾有に厳飾したのか。かくのごとき妙相は、昔より未聞見のところで、大徳の天生のため、仏の出世間のためである。

(以上、本文は五文字の偈)

 

その時、五百万億の梵天王たちは、宮殿と俱に、各、もって衣裓に諸天の華を盛り、共に下方を詣で、この相を推し尋ね、大通智勝如来を見ると、于の道場の處、菩提樹の下で、師子座に坐り、諸天、龍王乾闥婆緊那羅、摩喉羅伽、人、非人、ひとしく恭敬し、圍繞し、および十六王子が、仏に、法輪を転ずるを請うのを見た。時に、梵天王たちは、頭面で仏に礼をして、百千帀、繞み、すぐに天の華をもって、しかも、仏の上に散らせた。その散らせた華は、須彌山のごとくで、あわせて、もって仏の菩提樹に供養した。すでに華を供養して、各、宮殿をもって、彼の仏に奉上し、しかもこの言を作した。われらを惟い見て、哀愍し、饒益するよう獻じたところの宮殿を、垂れて納處を願う。時に梵天王たちは、すぐに仏の前において、一心に同声で偈をもって頌して曰く。

(以下、本文は五文字の偈)

 

  善哉、仏たちに見(けん)する。救世の聖尊、三界の獄において、よく衆生たちを勉出する。あまねき智の天人尊、群萌類を哀愍し、甘露の門をよく開き、一切において広く度す。昔、無量劫において、空しく過ぎ、仏あることなし。世尊の未出の時、十方は常に闇瞑で、三悪道は増長し、阿修羅は、また盛んで、諸天の衆は、転減し、死は多く、悪道に墮ち、仏より法を聞かず、常に不善な事を行い、色力および智慧は、ここにひとしくみな減少し、罪業の因縁のゆえに失楽し、および楽想は、邪見の法において住し、善議に識せず。すなわち、仏の化するところに蒙らず、常に、悪道において堕ちる。仏は、世間の眼と為し、久遠の時に、ようやく出て、衆生たちを哀愍し、ゆえに世間において現れ、超出して正覚を成し、われら、はなはだ欣慶し、および一切の餘の衆も、未曾有に喜歎し、われらの多くの宮殿は、光りを蒙るゆえに厳飾され、いま、もって世尊に奉り、惟垂し、哀れみ納受せよ。もってこの功徳を、あまねく一切においておよぶことを願い、われらと衆生が、みな共に仏道を成す。

(以上、本文は五文字の偈)

 

その時、五百万億の梵天王たちは、偈で、すでに仏を讃え、各、仏に白して言った。世尊に惟願する。法輪において転じ、安穏するところ多く、度脱するところ多く。時に、梵天王たちは、しかも偈を説いて言った。

(以下、本文は五文字の偈)

 

世尊が、法輪を転じ、甘露の法の鼓を撃ち、苦悩の衆生を度し、涅槃道を開き示す。私の請いを、受けるのを惟願する。大微妙音をもって、無量劫の集法を、哀愍して、しかも敷演せよ。

(以上、本文は五文字の偈)

 

その時、大通智勝如来は、十方の梵天王たちおよび十六王子の請いを受けて、即時に十二行の法輪を三転する。もしは沙門、婆羅門、もしくは天、魔、梵、および餘の世間の転ずると ころあたわず。いわゆる是苦、是苦集、是苦滅、是苦滅道および十二因縁法を広説。

(1)無明縁行 (2)行縁識 (3)識縁名色 (4)名色縁六入 (5)六入縁觸 (6)觸縁受 (7)受縁愛 (8)愛縁取 (9)取縁有 (10)有縁生 (11)生縁老死 (12)憂悲苦悩

1)無明滅則行滅 2)行滅則識滅 3)識滅則名色滅 4)名色滅則六入滅 5)六入滅則觸滅 6)觸滅則受滅 7)受滅則愛滅 8)愛滅則取滅 9)取滅則有滅 10)有滅則生滅 11)生滅則老死 12)憂悲苦悩滅

仏が天、人、大衆の中においてこの法を説いた時、六百万億那由他の人は、もって一切の法を受けずがゆえ、しかも諸漏の心において解脱を得て、みな深妙な禅定、三明、六通を得て、八解脱を具す。第二、第三、第四の説法の時、千万億恒河沙那由他衆生が、ひとしく、また、もって一切の法を受けずがゆえ、しかも諸漏の心において解脱を得て、すでにこれより後、声聞衆たちは、無量無辺で稱數できず。

その時、十六王子はみな、童子をもって出家し、しかも沙彌となし、諸根は通利し、智慧は明了、すでに、かつて百千万億の仏たちを供養して、梵行を浄修し、阿耨多羅三藐三菩提を求めた。俱に、仏に、白して言った。

世尊。

この無量千万億の、大徳の声聞たちは、みな、すでに成就している。

世尊。

また、まさに、われらのために阿耨多羅三藐三菩提の法を説きたまえ。われら、すでに聞き、みな共に修学する。

世尊。

われらは、仏が自ら證知した、深い心で念じるところの、如来の知見を志願する。

その時、転輪聖王のところの将衆中に、八万億人が十六王子の出家を見て、また、出家を求めた。王は、聴いてすぐに許す。その時、彼の仏は、沙彌の請いを受け、すでに二万劫を過ぎて、やっと四衆の中において、この大乗経を説く。名は妙法蓮華。仏が護念したところの菩薩に教える法である。すでに、この経を説き、十六沙彌は、阿耨多羅三藐三菩提のためゆえに、みな共に受持し、諷誦し、通利した。この経を説く時、十六菩薩沙彌は、みなことごとく信受した。声聞衆の中でも、また、信解あり。その餘の衆生で千万億種がみな疑惑を生じた。この経を説き、八千劫において、休廢すること未曽で、すでにこの経を説き、すぐに静室に入り、禅定において八万四千劫、住す。この時、十六菩薩の沙彌は、仏の入室して寂然と禅定するを知り、各、法座に升り、また八万四千劫において、四部衆に分別して妙法華経を広説した。一、一、みな六百万億那由他恒河沙にひとしき衆生を度し、阿耨多羅三藐三菩提の心を発せられるよう示して教え、利喜させた。

大通智勝仏は、八万四千劫がすでに過ぎて、三昧より起ち、法座に詣でて往き、安詳に、しかも坐り、あまねく大衆に告げた。

この十六菩薩の沙彌は、ためにはなはだ希有で、諸根は通利し、智慧は明了、すでに、かつて無量百千万億の仏たちに供養し、仏たちのところにおいて、常に梵行を修し、仏智を受持して、衆生に開き、示し、その中に、入(はい)れるようにした。あなたらは、みな数数に親近し、しかも、これを供養した。なぜならば、もし声聞、辟支佛、および菩薩たちがこの十六菩薩の説くところの経法をよく信じて、毀らず受持する者ならば、この人はみなまさに如来の慧である阿耨多羅三藐三菩提を得る。

比丘たちに告げる。

この十六菩薩は、常に、この妙法蓮華経を楽説し、一、一、の菩薩が教化したところの六百万億那由宅恒河沙にひとしき衆生は、世世に菩薩と俱に生まれるところとなり、その聞く法より、ことごとくみな信解し、此の因縁をもって、四万億の仏、世尊たちに得値し、于のいまに尽きず。

比丘たちよ。

私はいま、あなたに語る。彼の仏の弟子である十六沙彌は、いま、みな阿耨多羅三藐三菩提を得て、十方の国土において現在、法を説き、無量百千万億の菩薩、声聞があり、もって眷属と為し、その二沙彌は東方で作仏し、一の名が 1)阿閦で、歓喜国に在り、二の名が  2)須彌頂。東南方で二仏、一の名が 3)師子音、二の名は 4)師子相。南方で二仏、一の名が 5)虚空住、二の名は 6)常滅。西南方で二仏、一の名が 7)帝相、二の名が 8)梵相。西方で二仏、一の名が 9)阿彌陀、二の名が 10)度一切世間苦悩。西北方で二仏、一の名が 11)多摩羅跋栴檀香神通、二の名は 12)須彌相。北方で二仏、一の名が 13)雲自在、二の名が 14)雲自在王。東北方の仏、名が 15)壊一切世間怖畏、第十六が私、釈迦牟尼仏で、娑婆国土において阿耨多羅三藐三菩提を成す。

比丘たちよ。

われらが沙彌を為す時、各、各が無量百千万億恒河沙にひとしき衆生を教化し、私より阿耨多羅三藐三菩提のための法を聞き、此の衆生たちは、于のいま、声聞地の者として住してあり、私が常に阿耨多羅三藐三菩提を教化し、この人たちは、ひとしく応じて、この法をもって仏道へ漸入する。なぜならば、如来智慧は、難信難解であり、その時に、化したところの無量恒河沙にひとしき衆生者は、あなたら比丘たち、および私が滅度した後、未来の中の声聞の弟子、これなり。私の滅度の後、復して、弟子有りて、この経を聞けず、菩薩の行ずるところを覚えず、知らず、自らにおいて得た功徳で、滅度の想いを生じ、まさに涅槃へ入る。私は餘国において作仏し、更に異名あり。この人、滅度の想いを生じて、涅槃に入るといえども、しかも彼の土において仏の智慧を求め、この経を聞くを得る。唯、仏乗をもってしかも滅度を得る。如来たちの方便で説く法を除き、更に餘の乗なしである。

比丘たちよ。

もし如来が自ら涅槃の時の到るを知り、衆が、また、清浄に信解し、堅固に、空の法を了達して、禅定に入り、便じて、菩薩たちおよび声聞衆を集めて、ためにこの経を説き、世間に二の乗あることなく、しかも滅度を得る。唯一仏乗で、滅度を得る耳(のみ)である。

比丘よ、まさに知るべし。

如来の方便は、深く衆生の性に入り、その志が小法を楽(ねが)い、五欲に深く著し、ために、これにひとしきゆえ涅槃において説き、この人、もし聞けば、すなわち信受する。

  譬えの如し。五百由旬の険難な悪道で、曠絶無人の怖畏の處を、もし多くの衆があり、此の道を過ぎて、珍宝の處へ至りたく、一導師があり、聡慧明達で、険道の通塞の相を善く知り、衆の人を将導し、此の難を過ぎたくて、将いるところの人衆が中路で懈退し、導師に白して言った。われらは、疲れの極みで、しかも、復して怖畏して、復して進むことあたわず。前路は、なお遠く、いま、退還したい。導師は、諸方便、多く、しかもこの念を作す。これら愍むべき。何と云う、大珍宝を捨て、しかも退還したいとは。すでに、この念を作す。方便の力をもって、険道中の三百由旬において、一城を化作して、衆の人に告げて言う。あなたらは、怖れる勿かれ。退還を得る莫れ。いま、此の大城において中止できる。隨意に作すところで、もし此の城に入れば、安穏を快く得る。もし、よく前の宝城に至れるならば、また、去(ゆ)くを得るも可である。この時、疲れが極みの衆は、心が大歓喜して、未曽有に歎じた。われら、いま、斯の悪道を免じた者となり、安穏を快く得た。ここにおいて衆の人は、化城へ前入し、すでに度した想いを生じ、安穏の想いを生じた。その時、導師は、この人衆がすでに、止息を得て、復して疲惓ないのを知ると((⑥すぐに化城を滅して))、衆の人に語って言った。あなたらの去来する宝城は近くに在り。大城に向う者として、私が、化作したところは、止まり息むため耳(のみ)である。

比丘たちよ。

如来も、また復して、かくのごとく、いまあなたらのために大導師と作す。多くの生死、煩悩、悪道、険難、長遠を知り、応じて去(ゆ)き、応じて度する。もし衆生が、但に一仏乗者を聞くならば、すなわち仏を見たがらず、親近したがらず、便じてこの念を作す。仏道は長遠で、久しき勤苦を受けて、ようやく成すを得べきか。仏は、この怯弱で下劣な心を知り、方便の力をもって、しかも中道において、止まり息むためのゆえに、二の涅槃を説く。もし衆生が、二の地において住するならば、如来は、その時に、すぐに便じて、ために説き、あなたらの作すところは、未辦であり、あなたの住するところの地は、仏慧において近し、まさに観察して、籌量して、得たところの涅槃は真実にあらずなり。但に、この如来の方便の力を一仏乗において分別して三を説き、彼の導師のごとく、止まり息むためのゆえに、大城を化作した。すでに息みを既知して、しかも告げて言った。宝處は近くに在り。此の城は実にあらず。私が化作した耳(のみ)である。

その時、世尊はこの義を重ねて宣べたくて、しかも偈を説いて言った。(以下、本文は五文字の偈)

 

大通智勝仏は、十劫、道場に坐して、仏法は現前せず、仏道を成すを得ず。諸天、神、龍王、阿修羅の衆はひとしく、常に天華において雨らせ、もって彼の仏に供養し、諸天は、天の鼓を撃ち、あわせて衆の伎楽を作し、香風吹き、葉は萎え、更に新好の者が雨り、十小劫がすでに過ぎ、やっと仏道を成すを得て、諸天および世の人は、心にみな踊躍を懷き、彼の仏の十六子、みんなと、その眷属、千万億は、圍繞して、俱に、仏のところへ行き、至り、頭面で仏の足もとに、礼をして、しかも、法輪を転ずるを請い。聖師子は法雨で、私および一切を充たす。世尊は、はなはだ難値で、久遠の時に、一現する。群生の覚悟のために、一切において震動させ、東方の多くの世界、五百万億の国、梵宮殿を光曜させ、昔より未曽有のところ、諸梵は、此の相を見て、仏のところへ尋ねて来至し、散華をもって供養し、あわせて宮殿を奉上し、仏に、法輪を転ずるよう請い、しかも偈をもって讚歎した。仏は、時の未至を知り、請いを受けて、黙然と坐す。三方および四維、上下より、また復してその散華をして宮殿をたてまつり、仏に法輪を転ずるよう請う。世尊は、はなはだ難値で、もってもとの慈悲で、広く甘露の門を開き、無上の法輪を転ずるを願う。無量慧の世尊は、彼の衆人の願いを受け、ために種種の法を宣べる。四諦、十二縁、無明より老死に至り、みな生縁からあり。かくのごとき衆の過ぎた患いを、あなたらはまさに応じて知るべし。この法を宣暢した時、六百万億の姟は、多くの苦の際を尽くすのを得て、みな阿羅漢を成し、第二の説法の時、千万恒河沙の衆が、諸法において受けずとも、また阿羅漢を得た。これより後の得道は、その数の量は、あることなしで、万億劫と、算数でその辺を得るあたわず。時に、十六王子は出家して、沙彌を作し、みな共に、彼の仏に、大乗の法の演説を請い、われらおよび営從は、みな、まさに仏道を成し、願って、世尊のごとき第一浄の慧眼を得た。仏は、童子の心と宿世の行ずるところを知り、無量の因縁をもって、種種に多くの譬喩で、六波羅蜜および多くの神通の事を説き、真実の法を分別し、菩薩の行道するところ、恒河沙の偈のごとく、この法華経を説く。彼の仏は、すでに経を説き、禅定の静室に入り、一心に、一處に坐り八万四千劫。この沙彌たちは、ひとしく仏の禅より未出を知り、無量億の衆のため、仏の無上の慧を説き、各、各が法座に坐り、この大乗経を説いた。仏の宴寂後においては、法化を助けて宣揚し、一、一の沙彌は、ひとしく衆生たちを度するところ、六百万億恒河沙にひとしき衆あり。彼の仏が滅度の後、この聞法者たちは、在在する仏たちの国土に、常に師と俱に生じる。この十六沙彌は、仏道を行ずるを具足し、いま現在、十方で、各、正覚を成すを得た。その時、聞法者は、各、仏たちのところに在り、その声聞に住してあり、仏道をもって漸教し、私は十六の数に在り、かつてまたあなたのために説き、このゆえに方便をもってあなたを仏慧の趣きへと引き、このもとの因縁をもって、いま法華経を説き、あなたを仏道に入れるようにする。慎んで驚懼を懐く勿れ。

譬えのごとし、険悪な道で、迥絶(けいぜつ)し、毒獣多く、又、復して水草なく、人の怖畏するところの處で、無数千万の衆が、此の険道を過ぎようとして、その路は、はなはだ曠遠で五百由旬を経る。時に、一導師あり、強識で智慧があり、明了で、心は決定し、険しきを済(わた)り、衆難あり。衆の人は、みな疲惓して、しかも導師に白して言った。われらはいま頓乏し、此こにおいて退還したい。導師はこの念を作した。此の輩は、はなはだ愍れむべき、何なるごときで退還したいのか。しかも大珍宝を失う。時をたずね、方便を思い、まさに神通力を設け、大城郭を化作する。多くの舎宅で荘厳し、周帀に園林あり。渠流および浴池、重き門、高い楼閣、男女は、みな充満している。すぐに、すでにこの化を作して、衆に慰めて、懼れる勿れ、あなたらは、此の城に入り、各、楽しむところに隨うべきと言った。人たちは、すでに入城して、みな心が大歓喜し、みな安穏の思いを生じて、自ら、すでに得度したと謂う。導師は、すでに息んだのを知ると、衆を集めて、しかも告げて言った。あなたらは、まさに前進せよ。ここは、化城耳(のみ)。私は、あなたの疲れの極みを見て、中路で退還したくなり、ゆえに方便の力をもって、権化の此の城を作した。あなたに、いま精進を勤め、((⑦まさに共に宝所に至る。(當共至宝処)))私もまた、復して、かくのごとく、一切の導師と為し、求道者たちを見て、中路で、しかも懈廃し、煩悩と多くの険道で、生死を度すことあたわず。ゆえに方便の力をもって、息むために涅槃を説き、あなたらに苦滅を言い、作すところを、みなすでに辦して、涅槃に到るを既知して、みな阿羅漢を得る。そしてやっと大衆を集め、ために真実の法を説き、仏たちの方便の力で、分別して三乗を説き、唯一仏乗があり、息處ゆえに二を説き、いま、あなたのために実を説く。あなたの得るところは、滅に非ず。仏の一切智のために、まさに大精進を発し、あなたが一切智と三十二相を具す、十力にひとしい仏法を證す。これがやっと真実の滅である。仏たちの導師は、息(やす)みのために、涅槃を説き、この息みをすでに既知すると、仏慧において引入する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:⑦菩薩たちの中において、正直に方便を捨て

*2:①薬草喩品

*3:②此の品述成段の事